空の驛舎「エリアンの手記〜中野富士見中学校事件〜」@アイホール

開演の40分ぐらい前に戯曲を読み終え本編を楽しみに見た。まぁ、だらだらと感想を書こう。考えてじっくり書く時間は無いとする。とりあえず観て良かったと思った。それは、関西の俳優の熱演が観れたから。ちょうどこれを観る前日、山の手事情舎の安田さんWS公演を観ていて、演劇に携わるのが初めての人々の芝居を観ていたので、俳優が俳優している様が凄くよくわかった。素人よりやっぱ上手い。当たり前なんだろうけれど。まぁ、上手いって言っても基準がぐちゃぐちゃだから、上手いを「熱演の精度」って言っても良い。中村賢司さんは、とても真面目にこの戯曲に取り組んで、かなりまっすぐにこれを演出していた。その真っ直ぐさに、真っ直ぐ乗ったのが空駅組の人々だった。その真っ直ぐさは、とても良かった。エリアンの手記の戯曲に、吉本隆明が「無表情性」ってコトバを使っているのだが、その粋に自然に達していて良かった。主題の積極性など無く、自然に伝えられる域に達するとき、俳優は尋常じゃないエネルギーを注入している事は当然のこととして。○○組って良いなと思った。三田村、石塚、津久間、高橋が、僕の中での空駅組って感じで(といってもソコまで空駅演劇史を知らないから、あまり大層な事言えないけど)とにかく、その四人が四人とも凄く良かったのだ。(高橋の良さは、また違った文脈である。彼女にはもっとへろへろ活躍して欲しい。ファンは増やせるはずだ。私はファンになった。)その背景にはきっといろいろなことがある。そのいろいろな事のちょっとしたことを僕がちょっとだけ知っているから、ある種半分内輪的に観ているのもあるのだろうけれど、それを差し引いても(本当は差し引けないの部分も多い)、彼らの集中度ったら無かった。(全てを支えているのは戯曲の素晴らしさであることは言うまでも無い)。三田村の表情には、コトバで言い表せないモノを読み取ることが出来た。読み取るは違うか、感じることが出来たと言い換えよう。また、彼が英語で話すシーンの前半箇所で、私は不覚にも少し涙した。今思い出しても、あのシーンは、むかつくが泣ける。普遍的に感動したと言ったら良いだろうか。内実がどうであれなんであれ、表に出てくるものだけが表すモノゴト(あの時間・空間の表象)を感じ入って、私は不覚にも涙した。良かったよ、ちくしょう。と言いたい。(その後、音楽が入って照明が変わり、三田村の台詞の言い回しが変わる箇所で私は個人的には冷めてしまった。あの演出はしなくても、十分にあのシーンの深さは一般の人にも伝わると思った。)
戯曲のコトバ、そしてその意味と対峙している空駅組の精度・深度はすさまじかった。装飾過多にならない演出場面での方が、そういった箇所が顕著だった。しかし、僕も演出家であるため、あまり俳優を褒めても俳優は調子に乗り、次第に演出家不在の芝居を作ろうとしたりするので、あまり俳優を褒めるのは好きではないのだが、最終的に全てを担う存在としての俳優は認めざるを得ず、僕の尊敬する数々の演出家さんも「●●さんは凄かった」などと、天才的俳優の名を語ることは多い。演出家と俳優はそれなりに、絶妙なバランスで、共存すべきである。ってことを改めて思った。(しかし事実、装飾過多で無い箇所でもケンシさんの演出は光っていて、そういった箇所に気付くかどうかってのは、一般レベルではかなり難しいとも思った。でも、演出に気付かない良さってのもあるのだから、何とも言い難い処だけれど。)
さて、他に何が言えるか。ちょっと考える。(個人的には、先生役の山田一幸さんの精度は、2009年度伊藤拓が選ぶ俳優賞、助演男優賞ものだった)
アフタートークでエリアンの手記の作家、山崎哲さんが言われていたことも重要だ。山崎さんは「もっと遊んだ方が良い」と言われていた。しかし、私は遊ばなかったことを評価したいと思った。戯曲を読み、そのままの真面目さで取り組む愚直さはあるだろうが、その愚直さが振り切ってしまえば良いのであって、多分振り切ることを空駅組は決意していたと思う。客演の方々は、その決意の強さを感じたろうし、今回あまり出来が良くなかった(とはっきり書いてすみません)母親役の豊島さんもそれはひしひしと感じているだろう。母親役は難しい事は難しいが、足を引っ張ってしまった勿体ないなぁと思った。やはり演劇は全員で嘘を付く決意を同じくしないと、成立しない面倒くさいジャンルってことを改めて思った次第。
んー、あとはなんだろうか。ってこんなに長く書くのは何故なのか。それは僕が三田村が好きだって事はあるのだろうけれど、まぁ別に好きでも良いじゃないかって誰に俺は言っているのか。まぁ、とにかく書けるだけのことは書く。
舞台が二面で向こう側の客が最初見えているのも良かった。ちょっと首を曲げなければ、舞台の中心は見えない仕組み。それを意図したかどうか分からないが、正視の状態では客が見えるのだ。その目を少し右か左にずらして、やっと舞台を意識できる。もしくは、正視で見えてる客へのフォーカスをずらして舞台を観る。舞台に光が入るから、舞台を観る等々。成る程って思った。スタッフ的に少し疑問に思った点はある。まずは、舞台上の蓄光。あと、舞台奥(手前を扉があるところと考えて)に置いてあったSSの丸見えさ。あと紅茶のお湯。雪を降らす機器の丸見えさ。洗濯物がコピー用紙であること。これらの点は、なんというか、「まぁ見えてないことにして下さいよ」という暗黙の演劇的ルールなのだろうけれど、今の若い子らは(と括っていいか分からないが)、なんつーか、そういった箇所こそ気になってしゃー無いと思う(しゃー無いは言い過ぎにしても、些末な事の積み重ねで印象を得るのだから、一定の印象へ至る道ででかい障害になっていると思う。)些末な事を見えないことにするルールは、90年代以降多分無くなった。メタとして、そういった内情を見せる方法が90年代以降鮮やかに出たからこそ(ある意味60年代からそれは有って、当時はそのメタ加減が、泥臭かったから気付きはしなかったのかもしれない。90年代以降は、そういった逆手に取る手法は、もうちょっと鮮やかでかっこよかったりする)、具象で狙う舞台には、多くの嘘(信憑性を高める方法)が必要になる。インスタレーション、と言うコトバがまだ新鮮な響きを持っていたような頃には、「演劇だから、まぁパネルは壁にも見えるよね」というルールはまかり通ったが、今やインスタレーションなんて当たり前で誰でも見れて、大きな本屋に行けばそれ相応の美術作品を無料で覗けてしまう時代にあって、演劇特有のそういった嘘は逆手に取るか、払拭するかする必要がある。ってことを感じた。また気になったのはラストの曲。最近の日本映画でもそうなのだと思うが、なんか最後歌詞入りの唄を流すあの流れってなんなんだ。私は思うが、終演後に流す曲もまた一つの作品であるからして、作品→作品ってやると、その矢印を深く考えざるを得ない。勿論それを狙っているのだろうけれど、その矢印が常に良い方向に働く何て事は無い。後手の作品が、先手の作品を回収する危険性を孕んでいて、その事には注意しすぎることは無いと思うのだけれど。あからさまに主張が強すぎる唄が終演後流れてしまうと、舞台芸術が音楽(特に唄モノ)に白旗を上げてるみたいに僕は見える。それがなんか残念だった。回収などしなくても、十二分にパワーを感じたのだから。(ギターのノイズは良かったが、歌詞に腹立った、というのが正直な感想。あの歌詞は、客が芝居を見終えて個々に作らなければならないものであって、流してしまうと感想の強制になる。と思った。)
あー、ちょっと長く書きすぎた。肩入れして見入ってしまった分、多く書く必要性に駆られた処はある。なので、失礼な事もいろいろ書いちゃってるかもしれないが、思ったことを書きたくなるぐらいエネルギーを感じたってことが、一番の収穫だし、事実僕はけっこう感動したりもした。熱演芝居を支える戯曲の素晴らしさ、演出の細やかな指示、俳優の熱量、複雑に絡まって、とてもすがすがしく思った。気持ち良かった。全てにおいて感動したとは言わないけれど、でも山崎哲さんの言っていた事とかなり繋がるモノを僕は感じた。司会の小堀さんが質問した「犯罪フィールドノートのきっかけ、実際の事件を戯曲の題材にしたのはなぜですか?」ということに対して山崎さんは「当時、芝居の題材で個人的な話題が多くなり、それぞれの嗜好で、作品の好き嫌いの問題になることが嫌だった。みんなが知ってる事件なら、見終わって、好き嫌いではなくて、わいわい語り合えると思った」と言っていたが、まさに僕的にはそういった芝居になっていたと思った。好き嫌いの問題を越えるエネルギーを有したあの舞台を仕上げた賢司さんと空駅組は、言葉が正しいか分からないけれど、果敢でとてもかっこよかった。良いモノを観ました。ありがとうございました。