夕暮れ社弱男ユニット「教育」@芸術創造館 2010年3月25日

ゲイソウ遠いわくそ。とか想いながら行く。さらに開演に間に合わないと入れないと会場に先に入っていたうちの岩崎からメールで知る。千林大宮から走ったが力尽きてタクった。僕がタクったって言うと変な感じがするけど、まいいや。何故か駅でイキシマ出演者の山口さんにあった。一緒に途中まで走ったものの二人とも力尽きたタクった。そんな話はDOでもE。
ほぼ素舞台。リングっぽい感じに四方に電信柱(よね?)。建て込みほぼゼロ。大練習室中央に客席。椅子は小学校の椅子。東西南北向いた客席。お、おもしろそう。と思った。パンフレットに「いろいろ諦めて下さい」的な記述。視る前から諦めなければならないのか。覚悟がいるなパンクだな村上め。と思った。パンクなら私はクラッシュが好きだよ。
開演前、村上君が挨拶。客席周囲をぐるぐる廻りながら話をしている。その時に思った。「え、俺たちに見えるように既にぐるぐる回っているって事は、諦めろ的な事書いてた割になんだ優しいなおい兄さん」。きっと根は優しいのかな、でもまぁこの芝居のルールを開演前から分からせる方法であろう。しかし、誰しもがあの舞台を座ったときに二つの選択肢を抱くのであって、一つは「見えないシーン多いのかな?」ともう一つは「ぐるぐる回ってやるのかな?」で、開演前の挨拶を受けて客は、「あ後者だね、あよかったよかった」とか思うのだ。私は確かにそう思った。でも公園のブランコに乗っても酔う僕はその時点で「やべやべこれはついてけねーかもしれない」と思ったのである。実際、見終わってもその思いは残った。
そして舞台監督の若林さんが扉を閉めた。がちん。(あ、ちなみに、お客さんは通常ゲイソウで楽屋に使われる箇所を通って舞台に入る。裏手から入る的な。それでけっこうわくわくする。)扉閉まった後、しばらくの間客席にのみ照明。3,4分?後、ゆーっくりと客席の照明が落ちる。ここまでの時間は、最高潮に期待感上げ上げまっくす。真っ暗になってラジオっぽい放送。で、俳優達がぐるぐる。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。でいつの間にか終わった。
グルグルされて、まず私はGURUGURUってバンドのマニ・ノイマイヤーを思い出したってのは嘘で、告白すればやっぱ「わが星」を思い出した。ってのは単純すぎるけれど、本当にグルグルは「わが星」を思い出させたと告白したい。でも、「わが星」と「教育」では、内と外が逆になってって、お客さんは「わが星」の場合舞台全体を把握できるのに対して(って私は生で見てないですが)「教育」では物理的に舞台の4分の1しか視ることが出来ない。だからって、この時点で何ら優劣無いんだけど、大事なのは、この「客には見えてない」と言うことを、どこまで「教育」は逆手に取れたのかって事。グルグル回ってしまう時点で、見えないって言う面白ポイントは、作り手自ら放棄というかなんつーか。しかし、もし見えないってことが強調すべきポイントでは無くなっていて、本当はフロウ=流れの一点としての、その見え無さではなくて、定点観測は出来ないけれど、動きの一環として舞台を把握して下さい的な事であれば十分にそれは理解できるのだ。でもやっぱりそれでも尚、もし舞台のポイントとしてフロウを持ってきていたのだとしても、そのフロウが極めて単調で、ずーーっとぐだぐだの演奏会に付き合わされているみたいに感じてしまったのである。ツイッターで検索したところによると、この芝居を褒めた人がいるってことがわかるのだけれど、目指そうとしている事の面白さは100%以上納得いくものの、目指すべき処に至っているのかどうかと問うべきであり、私の意見では目指すべき処に全く至っていなかったのでは無いかと推測する。もしあの舞台をもてはやす人がいるのだとすれば(って実際にいるんだけど)、きっとそれは日常的に演劇を視ることがデフォルトになっており、演劇以外の芸術にあんまり触れてないからこそ演劇を敢えて擁護しようとする、なんつーか身内贔屓的な態度になっているんじゃないか。(実際、演劇を擁護して食ってる人もいるし、自覚的にその事を行っている人もいる。そういう人たちは、今言うと嘘っぽいが、本当はとても大切でそういう人たちは絶対にいるべきだ。でも、「演劇を見る目」みたいな鑑識眼という考え方があったとして/あるべきとして、そういった人たちは擁護ばかりになったとき、徐々にやっぱ腐るんじゃないかなぁ、その鑑識眼とか批評眼みたいなものは。そういった事ってもっと検証されていいと思っている。)比較対象とされるのが、どうしようも無い舞台であった場合、「教育」は確かに面白い事やってると言うことで評価はできるものの、成果とその精度みたいなもんを考えて行かなければ、なんつーか、オトナってやっぱ嘘つきだなてめーセンスねーなバカ、っ思ってしまう(これは決して作り手に言ってるんじゃない。なんか話がじょじょに演劇をよく見ている人に向かっている気がしてすげー怖いんだけど、まぁでもこの問題ってのはかなりでかくて、青春を代行してくれている的なほめ方は、演劇擁護する中心的な人たちがするべきじゃないと思う。でも、演劇ってもんは、人生やら生死の代行でもあって、舞台上だからこそ人が殺せるって論理は、ずっと昔からあるんだけれど、なんか僕が言う「青春代行」ってのは、とてつもなくなんか、なんつーか、真摯に汗かけばいいんだろ、って事で。なんか虚しい。それだけじゃ、もちろん無いんだろうけれど。だからこそ、140字の感想では殆ど何も分からなくって、密度の濃い言葉を140字で書くにもそれなりに技術いるよな。って自分でも思っている次第。)ちょっと酔った勢いで書いてるからぐちゃぐちゃなんだけど、方法論は面白かったけれど、方法論を駆使しているのか、って部分が非常に疑問に思ったんです。
たまに疑問に思うのは、今の若い世代の間で、演出力って事と発明力って事は、殆ど同じ意味になっていやしないか、って事。発明力って言い方すると嫌だけれど、でもまあ発明するってのは良いことで。但し、発明してしまった後にくる苦悩ってのは、オッペンハイマー並に考えなければならないんじゃないか。つまり、発明したことに対して発明以後、自ら反対してしまうぐらい、自分の方法に対してクリティカルでいなければならないだろうって事で。
こんなぐだぐだな感想よりも、ちゃんとした感想はココにあるので、よければぜひ。ここに書かれている事で、自分への自戒なり、この検索ぴっぴっぴ時代に演出家が単独能力で演劇を創っていく事に対しての解決策である箇所を引用して唐突に終わります。

そういった点からも、制作、プロデューサー、演出補佐、演出助手、ドラマトゥルクと肩書はなんでもいいから、村上君の考え方や発想に深く理解を持ちながら、なおかつお芝居の現場に関するイロハやノウハウを丁寧に教え、厳しく的確な助言や批判を与える存在がすぐさま必要だと、僕は考える。

追記→ここで実は考えなければならないのは、中瀬さん(上記のブログの人)も僕も、グルグル回られるのに弱いって事だ。もし三半規管が人並みに強くて、もっと舞台に集中出来ていたのであれば、もっともっと面白い表象が「教育」から見えたのかもしれない。この点は明記しておかねば、なんか病弱な人たちの反論みたいに見えて嫌だと思ったので、とりあえず書き記しておきます。ま、その辺はあんまり関係無いとも思うけども。