空の驛舎/太陽風

伊丹アイホールで観劇。
舞台は、マンションの御意見箱が置いてあるようなセミパブリックなスペース。マンションに住む人は、狭い面積の中に強引に集うので、空中に住んだりしている。縄文時代とは違う。といったセリフが印象的だった。僕もこうした思いはたびたび抱く。隣の住人の音が、息使いは、気になったりするものだ。昔、隣に住んでいる20代前半らしき男集団が、真夜中に大音量で格闘系のゲームをやっていた時は、怒鳴りに行きたかったけれど、その格闘系のゲームをやっている男たちから逆切れのリバウンドを受けたら怖いなぁ、、と想い怒りを鎮めた事がある。というか、格闘系のゲームのサウンドが面白おかしく、余り本気で怒っていなかったのも事実。AM3時頃に「でぃや」とか「うぉぃや」とか、不定期に聞こえてくる面白さ。
脱線してしまった。ちょっと戻そう。空の駅舎のお芝居を観るのは今回で二回目だが、どちらの作品も共通して演劇のコードがとても正当に機能している様を見た気がする。つまり、とても丁重に作られているので、「ん? そこはどういう意味?」と要所要所逃してしまう事が少ない。想像力が程良く刺激される。半身浴の心地よさとでも言おうか。以前糾いのお芝居を見た時も同じような事を感じた。程良く解けていく感覚。A⇒A´/B⇒B´の構図だ。若い作家は、A⇒Dとか行きたがる。今の僕には、どっちが好ましいか、よく分からないけれども、どちらも作品のスタイルとしては、あってしかるべきだと想う。
ネタバレ覚悟で書くが、ラスト三田村君扮する「名付けえぬモノ」が舞台後方に佇んでいる姿は、幽玄的な美を感じた。あ、舞台の奥に背中がうっすら見えるだけで、何らかの劇性が生まれ出てくるのだなぁ、と改めて思った。そうしたミニマルな表現で舞台は閉じる。
しかし、次回ヨヴメガネにも出演してくれる三田村君(空の驛舎所属)は、どうしてあんなにお化けお化けしているのか。とても良く似合っている。お辞儀をしないラストの演出も、なんか凄い。何所かの現場で彼と一緒にお話したときに、音楽の趣味があって、パンソニックとかパンダベアーズの話が出来た時は正直うれしかった。メガネの現場では、どうしようか。