むりやり堺筋線演劇祭について

▼大阪現代舞台芸術協会(通称DIVE)が運営している、「芸術監督」に学び、「舞台芸術」を考える、舞台芸術ゼミナール2010後期の第3回に参加してきた。僕はお手伝いとして少し関わっているのだけれど、かなり久しぶりの参加という形になってしまった。

▼今日は、ウイングフィールドの福本さん、インディペンデントシアターの相内さん、チラシなど担当された松本久木さんがスピーカーであった。参加者は少なかったものの、福本さんがお話しする機会ってあんまり無いと個人的には思うので、貴重な会だったと思う。(突然年齢紹介みたいになるけれど、現在福本さんは57歳でウイングを始めたのは39歳の頃からとの事。だから来年でウイングフィールドは20周年を迎えるらしい。大阪の小劇場にだって、当たり前だけれど歴史がある。福本さんとか小堀さん(福本さんと同い年!)と対面するとき、そういった歴史がふっと寄ってくる感じがする)

むりやり堺筋線演劇祭は、大阪演劇界の困窮状態に気付いていた劇場側の人々が、(ゆるく)一致団結してやっている企画だと言えるだろう。きっかけも聞いてみると面白いもので、福本さんがDIVE機関誌の対談で相内さんと話して、その時のノリ(という言葉に付随してくる様々な思い等もあっただろう)で提案してみたところ、といった流れで立ち上がってきたものらしい。(ちなみに、ウイングフィールド=堺筋線長堀橋駅、インディペンデント=堺筋線恵比須町駅)。きつい縛りなどは無く、ゆるやかなネットワークを形成しているからこその強みがある、と言うことが今日のゼミナールで分かった。2010年度むりやり堺筋線演劇祭には17劇場が参加し、70公演以上の作品が参加したとのこと。こんな大きな規模の、殆ど善意といっても過言では無い無償の演劇愛で成り立っている演劇祭は、他に例が無いと思われる。僕は福本さんと相内さんの話を聞いていて、むりやり堺筋線演劇祭って、ネグリとハートが「帝国」とかで記していたマルティテュード論にかなり近いものじゃないかと思った。といっても、僕は「帝国」をちゃんと読んでないし持っても無いので、ネット海でたまたま最近広い囓った程度の知識で申し訳無いのですが、てっとり早く恥ずかしげも無くWikiってしまえば、マルティテュードとは「いわゆる19世紀以降の社会主義に代表される革命に見られた多様性と差異性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合されたひとつの勢力でありながら多様性を失わない、かつ同一性と差異性の矛盾を問わぬ存在」という事になる。ま、この辺は興味がある人が勝手に考えてれば良いけれど、僕は面白いと思うのでもうちょっと突っ込んで考えて見たい。でも僕は「帝国」読んでない人間なので、知識も無いので、ひとまずイルコモンズ氏のブログより孫引きます。少し長いけれどかなり面白いです。

歴史のあらゆる時代にいつも存在し、どこにあっても、同じようなものとみなされる社会的主体がいる。[…] 地域を限定できない、ただひとつきりの名前、あらゆる時代において純粋な差異をしめす、そのコモン・ネームは、貧しき者という名前である。[…] 貧しき者は、困窮し、排除され、抑圧され、搾取されるが、それでもなお生きている! それは生の共通分母であり、マルチチュードの土台をなすものである。[…] ある見方をすれば、貧しき者とは、永遠のポストモダン的人物像である。それは、横断的で、偏在的で、多様な差異をもった、移動する主体である。[…] 貧しき者は、この世の中にただ存在するだけではない。貧しき者それ自身がこの世界の可能性なのである。貧しき者の存在のもとに、世界というこの場所、この唯一無比の場所が、(人の生の)内在性平面として指し示され、確信され、強化され、そして、開かれるのである。実に貧しき者とは地上の神である。[…]なぜポストモダニストたちにはそれが読み取れないのか。[…] 横断性をつくりだしている主体は誰なのか?誰がことばにクリエィテイヴな意味を与えているのか?従属化しながらも欲望することをやめず、困窮しながらもたくましく、つねに誰よりも力にあふれた貧しき者でなければ、一体ほかに誰だというのだろう。[…] 貧困は力なり。[…] マルクス主義的伝統の支配的な一派は、貧しき者たちを嫌悪していた。それはまさに彼らが"鳥のように自由"であったからで、社会主義の建設に必要なディシプリンをまぬがれていたからにほかならない

http://illcomm.exblog.jp/581808/

▼僕は決して、むりやり堺筋線演劇祭に参加している人々が貧しいと言いたい訳では無い。でも、今日のゼミナールでも参加者の殆どの人が「芸能文化は儲からない」を一つのデフォルト認識として持っていた。確かにこの意識を変革させねばという大きな流れも必要な事は当たり前なのだけれど、「むりやり」という標語からも分かるとおり、大阪人の気質みたいな、今日のゼミナールでも久木さんが言っていたが、まさに「ノリ」が何かを始めるきっかけとして重要だと言う事は、誰しも経験的に賛同できると思う。それは、福本さんの言葉にも出ていて、福本さんは「やってみなわからへん!」と今日も言っていたし、いつもよく言っている(と思う)。これこそが大阪的「ノリ」である。久木さんはまた、福本さんをドン・キホーテのようだと評していた。風車小屋に突進していくノリで、ひとまずやってみるというその精神。システム等はあとからでもついてくる。だからまず突進してみる=やってみる。この事は、それだけ大阪小劇場界が困窮しているという事実を露呈する事にも繋がるが、しかし尚「やってみなわからへん!」といったむりやりな精神が重要であるのは、その根底に演劇への真なる熱意・欲望があるからだ。欲望に自覚的で無い人も、欲望を人生の色んな局面で断念してしまった人も、むりやりという呪文を投げ掛けられて、敢えてそこに溺れてみたいと少しは思うだろう。そして息も絶え絶えに遠い岸辺を目指すうちに、きわめてなんとなく、自分の根底にある欲望に向き合えるんじゃないだろうか。自分の真なる欲望は、ただただ待っていても、あっちから勝手に来ない。何となくでも良いから、いろいろやってみて、そのうちふらっとやって来る。

※ちなみに次回の舞台芸術ゼミナールは、東京デスロックの多田さんです!要注目。というか、まじで来た方が、5年後の自分のためになると思います。
http://www.ocpa-dive.com/pas2.html
http://deathlock.specters.net/