杉原邦生演出作品/M☆3『こいのいたみ〜come on! ITAMI〜 』

そういえば、先日「杉原邦生演出作品/M☆3『こいのいたみ〜come on! ITAMI〜 』」ってのを観た。うちの岩粼も出ていたし、久しぶりに杉原君の演出作品が見れるって事で観に行ったのだけれど、どうも僕にはあんまり面白く感じられなかった。何でだろう。僕は杉原君の作品で「迷路」ってやつは観た。それ以降も本当は沢山見たかったのだけれど、実はあんまり観れていない。特に文化祭とか木下歌舞伎の前やってて横浜でもやってたやつはとても観たかった。でも結局観れなかった。昔リチャード・フォアマンの作品を演出しているのは観た。タバコを沢山吸っているやつだったと思う。僕は「迷路」にある意味で痛く感動していて、あれは関西小劇場に対して彼からのFXXK YOUってサインだったと思う。あのサインはよかった。

▼さて「こいのいたみ」ですが、何で僕には面白く感じないのかってことを考えるんだけれど、あんまり答えが分からない。まぁ、基本的に演技のスタイルが嫌いってのは大いにあると思うし、ちょいちょいコトバ遊びしてくる感じも全く心地よく感じなくて、ジャブを連打されたけど全然痛く無いなぁって感じでしかなかった。こんな事書かなくてもいいし、書いてるとやらしいなーって思いもするんだけれど、今日たまたま作家のブルーバード氏のツイッターをミタムラツイッター経由で観たら良いコメントばっかりがツイッターに流れているって書いてあったので、悪いコメントもココに書こうと想って何となく書いている。(逆に考えれば、良いコメントしか流れていない作品=悪い作品とも思ったりもするのだけれど。。。ま、これはいいか。)

▼表層で戯れて深層で何かを実は描いてますよという方法を使うってのは、結構僕はイージーなことだと思っていて、それができることをあまり凄い事だと思わない。凄いと思うとしたら、その戯れ方にすごさを覚えるのであって、そういう意味で「こいのいたみ」の戯れ方は、とても中途半端な感じがした。学生周辺を使うとココまでしか行けません、勘弁して下さい。といった謝辞、って使い方違うかもしれないけど、なんか感謝しつつ謝るみたいな、そういったものが漂っている感じがした。戯れ方として何かに向かって挑戦した結果の謝辞であれば、僕は何となく分かるけれど、創作の早い段階でその謝辞的な気持ちが沸いてきたんじゃないかと思った。ある意味でそういった早い謝辞、それは潔い諦念といっても良いと思うけど、そういった潔さが出たときに、一周回ってそれがメタに代わり、「じゃ、こっちにいっちゃおーぜ」といった視点の切り替えが行われたんじゃないだろうか。(こっちというのは、作品としてまとめていこうとした場合に、元来目指していたエネルギーの流れる方向とは違う方向へ行ってしまって、全体的に縮小気味な感じになるという事)。作品を公演日にまで作らないといけないから、そういった切り替えはプロフェッショナルとして必要なんだろうけれど、僕はアーティストが作品と格闘している感じを余り受けなかった。格闘していれば良い作品って訳でもないんだろうけれど、あの程度のレベルの作品であれば、既成概念を壊したいとうずうずしている20代の演出家なり作家であれば、すぐさま仕上げる事は出来るんじゃないだろうか(湯水に使えるお金が有りさえすれば?なのかどうかは、分からないけど。)もし、あの作品を評価できるとすれば、それはエンタメ文脈の中なんだけれど、ちゃんと現代演劇的要素を取り入れて、(レベルはどうあれ)遊んでいるという態度、だと思う。つまりスタンスが良い。しかしそれは作品が良いってのは全然違う。あの作品のスタンスは評価されるべき。喩えがあってるか微妙だけれど、僕的にはあの作品に象徴される、杉原邦生的なるものは、ベストジーニストみたいな感じで評価されるのだと思っている。もちろんそれはそれで凄いと思う。杉原君が現代劇の裾野をぐっと広げているのは間違い無いことで、そういう意味で大阪でエンタメしている人こそ観て欲しいし、彼がインディペンデントシアター2ndでやって欲しいなぁーって僕は個人的には思ってるけど、やらないかなぁ。。。どうだろう。

▼と言うところで僕の感想は終わるはずだったんだけれど、どうしても書きたいこととして、池浦さだ夢氏のラップがある。彼のディスの内容は共感できるものもあれば、できないものもあって、しかし全体的に彼の言ってやるぞオーラがヘナヘナしてたのが面白かった。あと何よりも印象的だったのは彼の顔、特に目。彼の目は、人を癒す優しさ溢れる目でした。