yumboと三角フラスコ

▼三角フラスコ+yumbo「これが現実だ」観劇。yumboは音楽集団であり、三角フラスコは演劇集団である。その二つの集団が一緒に、同じ舞台上にいた。僕はyumboのファンで、ライブが見れることを凄く楽しみにしていた。実際、とても楽しんだ。一方、僕は演劇集団の心配を、勝手ながら、本当に勝手ながらしていた。それは、演劇と音楽と比較した場合、僕は音楽の方に軍配を上げるからだ。それはなんの勝負だよ、と言われれば、単に僕の趣味として、「音楽はすごい」ってずっと思い続けているからだと言いたい。そんな言い方ではなんの説明にもなってないから、もうちょっと言葉を足せば、音を受信する/発信する事と、コトバを受信する/発信する事は、まるで違う事なんじゃないか、ということになる。おそらくそれは、真っ直ぐな線で何かのイメージがこっちに届くのか届かないのか、そのことに意識的になっているのかどうか、といった事と関係していると思う。コトバの意味のレベルと音のレベルと分けたいと思うのだけれど、良い音楽は自然とその意味レベルと音レベルを自然な形で取捨選択しているのに対して、演劇の場合、意味レベルが随分と勝っていて、「セリフをまず言えばいい」ってことから始まっている、その感じが僕は凄く嫌だ。「まず言えばいい」という態度は、既にある何らかの鋳型に頼り切っている場合が多いと思う。

▼鋳型にはめたやり方では、セリフが空中に浮かんでささーと消えてしまって、その人自身の重さとか匂いとか、そういったのが、全部消えて無くなる感じがする。それは勿体ない。その人から出てきた鋳型であれば、そういった問題は解消されるだろうし、その鋳型と俳優とが死闘を繰り広げたのであれば、そういった事は自然と観客にも伝わる。楽器を持たない俳優であるからこそ、己みたいなものはもっと大事にしないと、変な傷付き方をしてしまうだろう。他者に為る、という無茶なお題をやってるのだから、多少多めに見て下さい、といった空気が僕は好きではない。無茶なお題をやっているのだからこそ、厳しくその人自身を見つめたい。といったことを感じた。

▼書いてから数日経っているので、UPしようか躊躇ったが、このまま載せてみました。本当は、音楽におけるMCの役割とセリフ術について、色々思考したかったのだけれども。俳優も唱うべきだ。

http://www.myspace.com/yumboyumbo