失踪する人たち

▼人は時に失踪する。最近、1ヶ月ほど失踪していた人を、今日発見した。仮にA君としよう。A君とは一緒に色々とやってきた仲である。しかし、彼は失踪した。演劇はまるで儲からないシステムを基本とするので、貧乏人は演劇を避けた方がいいし、私個人もそういった意味では、なかなか苦労している。おそらく、A君もそうだったのだろう。こういった不幸せなNEWSは公に知らせない方が演劇(の見栄)のためかもしれないが、結構これが現実であって、演劇をやりながら失踪する人は多いのだ。隠しても仕方が無い。演劇をやっている時点で社会から失踪しているようなものなのに(実際は演劇と社会をしっかりと結びつける必要性があるし、僕はその辺の問題をちゃんと考えていきたい)、その失踪先からまた失踪するとは、どういう事なのだろう。逆に考えれば、これは社会復帰を意味しているのだろう。いわゆる、「足を洗った」ということだ。実際、演劇活動を辞めれば、多くの時間を(お金がもらえる)仕事に捧げることが出来る。週5(土日含む)を要求されていたところに、難なく行けるようになる。そのことでずいぶんと楽になる場合も多いだろう。今回のA君が、今後どうなっていくか分からないが、私は別に演劇を辞める人は辞めるよね、ぐらいにしか思っていないのも事実だ。しかし、やはり仲間意識があった者の一人として、こうなってしまった前に、相談してもらえなかった事を、少し悔しく思っている部分もある。ただ、こういった想いも、最終的に危ない独占欲と繋がる可能性を孕んでいるので、深入りも良くない。被害者を助けようとする気持ちが強すぎると、結果的にその助けようとしている人も加害者になってしまう恐れがある。適度な距離で持って、お互いに自立しあう事を前提に考えなければならない。それは、家族だろうと恋人だろうと友人だろうと職場だろうと、どういった関係性においても大切な事じゃないだろうか。(と書きつつ、僕自身回りに凄く依存している事を痛感したりもする、、、)

▼例えばA君の自立が、私たちとの連絡を途絶えさせることで成立するのならば、それもいいだろう。しかし、今のところ、A君が見つめなければならないのは、突如として消える事は、とんでもなく回りに迷惑をかけるって事である。全然関係のない人が消えるのは別に何とも思わないし、関係のない人はそもそもいなかったも同然であるのでいいのだが、A君はとりあえず突如として消えられると困る人だったのだ。A君はそういった位置にいたのだ。彼はそれを余り意識していない、もしくは敢えて意識してそこから逃げていたのだろう。無意識に彼を追い詰めていたのかもしれない、という想いもあったりして反省もするが、今日彼と会って、また違い想いを抱いた。確かに自分の立ち位置を、突然消去してしまいたくなる人は多いし、それはある意味で一番てっとり早い手段である。世界も広いっちゃ広いので、彼らはまた別の立ち位置を探せると思っているのだろう。しかし、根本的な部分を解決しないままには、結局そういった問題は繰り返される。些細な例だが、拡大解釈してみれば、メールを返信しない人も、そういった問題を抱えているのかもしれない。「どうせ僕なんて」と考える人が、メールを返信しなかったりする。ただ、逃げても逃げても、何か粘っこい重苦しい感じは、払拭出来ないだろう。時間をかけて解決する事なので、焦る必要は無いが、何かを拒絶するにしても、ちゃんと誠意を持って拒絶して欲しいと思う。突然の完全無視は余りにも切ない。とりあえず今日A君には、「水くさい事するな」と伝えた。しかし、この言葉が水くさかったかもしれない。いずれにせよ、無事で何よりだったことは間違い無いけれど。