初日終了、脱臼力

東京入りしてノリ打ちで行われた今回の作品、あのリズム。舞台監督も音響も連れて行ってないので、全て自分たちで賄わねばならず、非常に大変な状況にも関わらず、本当に役者さんたちは頑張っていると想う。まぁ、うちの役者は、特に男子は、非常に仲間意識が強いので、まそれが珠に傷なのであるが、まぁいいだろう。皆すやすやと眠っている、只今とある劇場にてお泊まりをしている状況です。どんな人間も眠った顔程無垢的なものはない。あっぱれトム・ウェイツ、スモークは本当に良い映画だ。また今回は、制作担当の三村さんには非常にお世話になった。これ程お世話になっていいのかと言うぐらいお世話になってまして、非常に感謝しております。また、劇小劇場のスタッフの方々も良い方ばかりで、穏和で、なんだろう、逆にこっちが申し訳なくなるぐらいの感じだったのが、もう、感謝いっぱいです。といって、まだ全部終了していないので、結果もどうなるかも全く分からず、時間があるのでだらだらと書いているだけです。

初日が終わって、10分程度のアフタートークがあった。その場で二次審査の作品との相違点を指摘され、確かに二次審査とはまた全く違う作品を持ってきてしまったので、評価の分かれるところかもしれないと我ながら若干反省もしている。唯、今回の作品においていわゆる現代性みたいなものは極力排除したくて、現代口語を全く使わない方法を自分で撮りたかった(これは、大いにサミット参加の反響が大きい。確かに僕は現代口語の方法と一口に言ってしまうのは非常に乱暴だけれども、日常的に20代の人々が会話しているような方法論が好きなんだけれども、それは巷でチェルフィッチュの岡田さんの方法論がクローズアップされた事も少しは影響があるかもしれないけれど、僕はむしろ、口語(通常のセリフらしからぬ話し方=日常的な俗的な話方)でもってお客さんに向かって話すというのは、ウッディ・アレンからの影響の方が実は大きくて、と言うかあのウッディの突然フレームを極めて意識させる、作為をモロ見せてしまう方法には大変共感した。漫画の表現方法でコマ割を全く無視して、外へ飛び出ていこうとするもの(古くは手塚の実験アニメーション等)があるけれど、ああいったはみ出し系と名付けてしまうが、はみ出し系は僕の好むところです。ま、とにかくその辺の影響が強くて、トリストラム・シャンディを文学の授業で習ってから、意識的な語り手ってやつに興味を覚えるようになった。でもしかし、岡田さんの方法はやはり非常に透徹って感じで、凄まじい力が込められている。それは、今日観に行ったフリータイムでも十分感じられた。本当にミニマルな表現方法の中に意識の層が幾重にも積み重なったみたいな、丁寧で繊細で、そっと想いを手渡す(いや要らないなら別にいいけど、もし気付いたら受け取って)といった匂いがする。沈思出来る人にとってその匂いは良いにおいだろうなと。W.アレンの方法論は、どちからと言うと物語を一時的に脱臼させるような力に働く「語りかけ」なのである。脱臼にとても惹かれる僕は、すぐに自分の物語に飽きてしまい、自ら時間軸を脱臼させる事を好んだのだけれど、今回はなるだけ脱臼する事なく、落ち付いて時間を紡ぐような方法でやってみた。けどそれがどれほど僕の「性根」に合致しているか正直判らない。やっぱり僕はまだ作家として自分の作品群(グンだ大切)を飼いならす(なんて到底無理で、むしろ作品に足を引っ張られる作家の方がいいぐらいだが)ほど、己の戦略を持ってはいないのだと潔い諦念が此処にはあって、先日たまたま購入した千田是也著「演劇入門」には、岸田國士の言葉が引用されているのですが、そこには「言葉の空しさを自覚する事から私の文学は始まった」とあって、なるほど私は言葉や身体性の空しさを自覚せねば、次なるステップには進めないのではないかと思いいたり、演出家コンクール最終審査の作品では一切口語の無い作品を作っては観たものの、それを観た栗田君が「伊藤さんの作品は口語らしからぬ所がポイントですよね」などとあっさり言ってしまったりするので、なんだか良く分からないから、今日は旧友SとSの彼女と一緒に沖縄料理を満喫した。あ、あと親戚に会って、Wiiもやった。Wiiについてはまたいつか書きたい。Wiiは、凄い。けど、それに目を瞑る厳しさも私は持ちたい。はて。