ウォーリー木下演出 / 書を捨てよ、町へ出よう、とか

ウォーリーさんの演出はよくポップと言われる。しかし、ポップって何だ。最近読んだ本の中に、「ポップとは放屁の音である」といった記述があった。英国の人が言ったらしい。誰でも思いつきそうなコピーだけれど、この意味は深い。面白い。紙幅が無いので(?)手短に書くが、ウォーリーさんの演劇への距離のとり方は絶妙だと想う。実際に彼のブログを見たら、こう書いてあった。

最近頭がおかしくなってきたのか、
演劇という言葉が演劇に見えなくなってきました。
もっともっと、演劇じゃなくなるといいなあと思います。

なるほど。ポップだ。そんな気がする。普通に現代人してる人だったら、ウォーリーさんの演出術にずぶっと嵌る。しかも、そのポップの沼は深い/巧い。美味いってよりは、巧い。演出。そして、役者の上手過ぎない演技が「巧い」。軽いといったら良いだろうか。ウォーリーさんは、なんか垣根をさらっと取り払う。良いものを作るために、ウォーリーさんは大衆の中に隠れながら、じめっとせず、さらっと建てる。真夏にニット帽被っても、じめっとしない。それがウォーリーだ。それが、かっこよく映る。演劇2.0っぽい感じがする。TVな人って印象がある。そう見える。でもあれだけのものを創るには、相当な作為が無いとやれない。皮膚に汗は見えずデオドラントだが、恐らく脳内汗腺が発達しているのだろう。びしびし感じる。でも距離もある。巧い。「もうーいいーかい?」に対して「まーだだよ」という堅物が居るのに対して、ウォーリーさんは「もうーいいーよ」ってすぐに応えてくれるだろう。さらっと応答しながら、鬼が見つけようとしても、なかなか見つからない。臭いと音で探すしかないが、余り臭くない。個人的な意見としては、それが少し残念。