應典院打合、前向きな死に方の感想とか

▼本日SD2007の打ち合わせがあった。先日、お話した旧劇団スカイフィッシュの小嶋君も居た。勝手に君付けしているが、まぁ、いいや。今日判明したが、同い年らしい。なるほど。
▼SD打ち合せは、あまり捗らず。ん〜、もっと色々言えば良かった。次は言おう。帰り際、小嶋君と劇団101010の十時さんを誘って軽く一杯。二人とも西堂行人さんの話をする。僕は勿論西堂さんを知っているが、一方的にしか知らない。羨ましかった。
▼終電帰宅後メールCHK。←ビジネスマンのチェックの書き方。前向きな死に方に関する感想がとある方から届いていた。結構長文だ。これは、お返事ださねば。今週中にはお返事しよう。一読した限りでは、批判的な文章であったけれども。こういうメールは、とても有難い。しかし、その人の観劇歴、嗜好性が判らないので、少しだけ書き方を考えなければ。何れにせよ、感想メール、どなた様もお待ちしております。
▼そういえば、知人からも感想メール頂いた。そちらも、批判的内容を含むもの。うん、事後処理でも良いので、やっぱり自分の作品にはしっかりと責任を持たねばならない。「やっちゃいましたー」ではすまされないのだ。おそらく。
▼さて。前向きな死に方は、一人の男が死ぬ話です。鳥になって飛ぶ夢を見る男の話です。彼は何故だか死にたがっています。現実がつまらないからだそうです。で、飛んで死にます。僕の描きたかった部分は、しかし全然そこには無くて、明確な根拠も原因もわからぬまま、死を欲するダメな人間の周囲を「薄く」描きたかったという意図がありました。「死」を感じるのは、結局のところ「他人」でしかありません。公演前日ぐらいに、ここに書きましたが、結局のところ、「されど、死ぬのはいつも他人」ということを描きたかった。死人やセックスを誘う人が出ますが、これは些細なフェイク(落とし穴)で、本来描きたかった部分の「死の周辺で何と無く過ごす人」を描けたならば良かったと思います。実際問題、あまりそこは描けていないのかもしれませんが。
根本として、死を劇的に扱いたくなかった。だからこそ、下世話な方向へ、赤い鳥として死を夢見る男性の姿など、極めて凡庸ですし、そこに何の深い意味も見出して欲しくは無い。なんて書いちゃうと卑怯でしょうか。赤い鳥として死ぬのは、極めてどーでも良い事です。そして、ダッチワイフが劇中登場しますが、あのダッチワイフとて、セックスしたからってどーなんだ、としか描いていないのです。死体たちが主人公の周りに来て、彼を死へ誘うために、偽りの死を演じますが、それぐらい「死」を軽く扱って、ビジネスライクに昇天を誘う人たちは、ほんと気侭に去っていきます。(適当なロマン主義は恥ずかしいし、そのようなある種の受動的鑑賞を促すような作品は最近あまり興味がありません。僕はとことん下世話、卑屈な姿勢で死を描いたと思います。)死体たちと主人公との距離、戯曲の半ばでの出来事ですので、一つの折り返し地点ではあるのですが、そこの描きこみはまだまだ足りてなかったかもしれません。ダッチワイフとの昇天を諦めて、全裸で寝る男の前に元彼女が登場しますが、元彼女の語る「祖母の死」も「遺影撮影」も日常会話として埋没するのみで、元彼女(佐野ヒカリ)が彼(仲山)の死に気付き、それを止めることなど到底出来ません。せいぜい彼女が出来た事は、冗談として撮影された「遺影」を残すことのみで、彼の「タナトス」に全く触れることは出来ないのです。それは、友達の河野もしかり。周りの人間は誰もその人の本当の「死」に触れることなど出来なく、周囲で他愛の無い会話を繰り返すのみ。もちろん、その会話の中に生のヒカリを指すような事象が見出されたとしても、明るければ明るいほど影が濃いように、本来の意味での救済を周囲に求める事は無駄でしかない。いや、しかし、本当にそうであろうか。前向きに彼は死んでいるのですが(土曜日の回は除く。すみません。)、どぎもを抜かれないと思い込んでいる彼側に非は無いのか。ビールを大量に購入し、元彼女と楽しく酒を呑んでいる友人の姿を垣間見る事はあるのか。見たとして、どうなのか。
だらだら書きましたが、僕のメモとしてキープ。しかし、自作品についてダラダラ考えている暇があれば、次の作品について考えたい。そして芸術家に必要なのは、事前の説明であって、演劇作品を事後的に説明しても、なんだかちょっと虚しい。ともあれ、参考に記すが、本條の仕事先の演劇等ちっとも見ない感じの若い子たちが、今回の作品を随分面白がってくれている。もしも、彼らが今回の作品を初めて観ていたら「??」になっていたはずだ。作り手も受け手も確実に成長するという参考資料が此処にある。そして、能動的に鑑賞して頂くための手引とは何か。ずっと考えている。ま、結局のところ作品の総体的な「出来」なのでしょうが。