PARA

山本精一の音楽ユニットにPARAというものがある。昨年初めてCDを出したのだが、結成は6年前らしい。僕はPARAをsystrum#1で初めて体験したのだが、そのときの感想をPARAと一緒に共演していた鬼才吉田ヤスシ氏(BISCO)の言葉から借りれば、「いい〜薬です。」、だ。本当に良い薬だと想った。ちょうどその時熱心に考えていた複雑な役者と演出家の関係性、制約とか負荷とか瞬発力とか反復とか、そういった事を何かすっとばして、すごく良い薬を処方してもらった様な気がした。あれは、演出家が体感するより、役者が実際に体感した方が絶対に良い効果が生まれると想うのだが、、、って思案していたら、鰻谷燦粋のHPに山本精一/文責の文章が載っていて、これがとても判りやすいと想うので、ちょっとここに引用してみたい。

PARAにあたっては、演奏側にいろんな制約やルールが科せられており、演奏者は不自由を思い切り体感しながら同時にそれを超えて、ある「とびきり自由」な場所へ到ることを理想とする。ひとつひとつのフレーズが反復を繰り返し、拡張し、収れんするプロセスの内で重層的に織り成され、編み込まれ、組み上げられていく。だんだんアタマとカラダの境界がぼやけ、ある時間には両者が分離さえするというよう状況を呈する。そこにおいては、各々の演奏者の作家性は消滅し、ただひとすじに「曲そのもの」へ向かって突き進むのみなのだ。演奏という行為が身体性を離れる瞬間である。あるいは、もう一つ別な身体性を獲得すると言うことなのかもしれない。この事が正しく成功したならば「肉体的」でなくても十分にグルーウ゛を生むことができる。アタマでもカラダでもない、その中間でもない何やら奇妙だが魅力的なグルーウ゛。
(中略)
・・・PARAでは「エラー・システム」というものを用いて、例えば誰かが弾き間違えても、そこからまた新たに、フレーズの組み上げが始まり今迄の経緯とは全く別の曲が出来上がっていく。このことがまさに我々の理想とする、あまり見られない種類の自由な即興演奏なのだ。不自由を与えられることによって得られる自由、緊張感を強いられることによって生まれる遊び。

さて演劇では、戯曲のコトバがあってこそ、役者は人前でわざわざ話さなければならない状況に至り、演出家の指示やト書きがあってこそ、役者の身体的行動はお客様の前でわざわざ視覚化されなければならなくなる。そういったもろもろを、「制御」という言葉で括った時、役者への制御レベルはどこに調整すれば良いのか。演出家として、そして一人の人間として、そういった事をヒューマニズムとか交えながら、たまに考えてしまう。台本だけがあり、何の制御も無い状態で、純粋に役者の衝動が得られて、なおかつその衝動による発語や身体的所作が鑑賞に足るものであれば、それに超した事は無いのだろうけれど、なかなかそういった役者はいないのだろう。だからこそ、20世紀は演出家の時代だったはずだ。そこには良い意味でのヒエラルキーが潜んでいた。では、21世紀はどうなるだろう。今の時代性を無視して集団作業なんて出来ない。僕は新興宗教でいうところのグルにはなりたくないからだ。どのように関係性を作って、どのような作品を仕上げるのか。そういう意味で、PARAはかなり、「いい〜薬です」。