デス電所、絶対値

デス電所の芝居を見に行く。デス電所を初めて見たのは、ART COMPLEX1928でやっていた「ちょっちゅねん」と言う作品。チラシのデザインのヘッポコさに惹かれて観に行ったところ、何だかわんさか盛り上がっていた。地元の高校の先輩が立ち上げている劇団にホチキスと言う劇団があるが、その劇団にとても似た空気を少し感じた。17歳ぐらいの淡い頃、手近な彼女とセックスしたい的な卑俗な欲望は、あの当時羨望したホチキスの力によって歪曲され、結果として舞台藝術への想いは性欲よりも優った。そんな高校時代だった。何だそれ。

▼で、デス電所である。僕は以下の二点に於いてデス電所がとても好きだ。①やんちゃな点 ②踊る点 これから、その説明をちょっとだけしてみたい。僕の観た範囲でしか答えられないのだけれど、彼らは舞台上でとてもやんちゃだ。やんちゃなんて言葉を使うこと自体、何だか恥ずかしいのだけれど、やんちゃと言う形容がとてもよく当て嵌まると想う。それは決して幼児性ではない。若干インテリなやんちゃ(略してインテリヤンチャ=インテリゲンチャの幼児的発語とは言わない)なのだ。知性を備えた上の爆発。それが面白い。芝居の流れとして基本的に笑える箇所を連綿と紡いでいるけど、僕が面白いと感じるのは、そのジャブやら助走から考えると大幅に逸脱してるであろう瞬間。例えば、山村涼子演じる粘着質なキャラの暴走であったり、松下隆の飄々とした態度、福田靖久の全身全霊で自滅へ向かうレミングス摸倣。(特に僕が観に行った回における「夕景殺伐メロウ」中盤、福田氏がギター片手に歌う場面は、関西演劇界を大きく揺るがし得る名暴走だったと想う。久しぶりに笑感。) そういった素晴らしい暴走っぷりは、密かに関西で演劇をする者たちを鼓舞する事になっていると想う。それは大変良いことだ。②についても、これと殆ど同じ理屈なんだけれど、デス電所の踊りは、どこか彼らの稽古風景を思い起こさせる所がある。何故なら、それはあんなにもバカバカしいシーン(誉め言葉)を続けながら、唐突に絢爛な照明音楽を伴い踊り始めるからだと想うが、あの姿は、とても眩しい。おふざけシーンに挟まれる形でダンシーシーンが突如あらわれるので、彼らの熱心な稽古風景がそこに垣間見え、それ故に尚一層あの場面は輝いて見える。(ちなみに、僕はコンドルズの人々がコントをして突然踊り始める姿があまり好きではない。あの踊りにオリジナリティを僕自身はあまり感じないからだ。大変有名な曲に合わせて踊る学生服の人たち。僕はあのステージに金の匂いがプンプンして、嫌な気持ちになる時がある。)でも、デス電所の音楽は今更言うのも恥ずかしいが、手作りだ。しかも、その作っている方は、時に舞台上に現れる。凄く素敵だ。

▼突然こんなにも長ったらしくデス電所の事を書いてしまうと、多くのデス電ファンに野次飛ばされそうだけど、僕は結局何が書きたいかと言うと、デス電所による徹底的にハードコアな芝居を見たいなって事です。お客をもっと突放すような芝居がみたいなって想ったのです。僕の勝手な欲望ですね、これは。でも、こう想ってしまった大きな理由の一つに、僕の知ってる関西若手演劇人でデス電ファンが多い(らしい)という事があります。いや、別にこれは(そこまで)妬みでは無く、寧ろ問題はそのファンである演劇人たちの芝居が、デス電所のやんちゃ加減から程遠く、何だかとても肌寒い事です。いや、別に違うベクトルを嗜好する事に何ら問題はありませんが、せめてアナタも実演者であるのならば、自分の集団の無意識的重圧に負けず、今すぐ同じ絶対値は持ち得ないにしても、それなりの姿勢は見せていこうよ、と思うのです。(あ、この論、とても狭い所で話しているのかもしれないな、と今更気付いたけれど、一応書残しときます。そして関西演劇界の若手に関して色々思う事は自分も若手ながらに色々沢山ありますが、その辺は色々とまた色々と。)