ポスト・プロダクションの可能性

▼今日は通し稽古をした。スペアーは全部で五章からなる物語だが、今日は1章〜3章までの通しをした。昨日も稽古があったが、僕は美術の置いてある場所まで行き、何かと打ち合わせ等をしていたので、昨日は役者だけが稽古をしていた事になる。役者だけの稽古日を、途中で挟むと、凄く演技の変化が見られる事があって、ある種あれは演出家として考えると、色々と悩むところであるが、僕がいてもああいった自然な動きをしてくれよ、って思う。縛っちゃっているんだろうなぁ。別に灰皿とか投げないのに、僕は。

▼第一章〜第三章まで通しを見ていて思ったのは、演劇におけるポストプロダクションってありうるのかなぁって事。この気持ちを説明するのに、ちょっと映画製作の四行程を示してみますが、大体こんな感じになっているらしい。

第1段階:ディベロップメント
第2段階:プリプロダクション
第3段階:プロダクション
第4段階:ポストプロダクション

で、それぞれの段階における説明は、http://cinemakun.com/word/index.htmlを参照して貰うとして、とにかく僕はポストプロダクションに凄く興味があって、大学時代一度短編映画を作った時も(3分ほどの作品。ママチャリに載った男が荒野に現れて、上下運動を繰り返しながらひたすらまっすぐ進んでいく途中、立ち止まり水を一気のみする映像がループする。)、編集作業が一番楽しかった。編集好きな監督は概して良い映画を作ると言う意識が僕の中にあって、それは大御所で言うところの北野武であったり、アッバス・キアロスタミであったりするのだけれど、何れにせよ、ポストプロダクションの面白さは、素材が既にあり、制限された所から何かを生み出す、選択する楽しさであって、舞台作業は、編集と撮影を同時にしているような感覚で、それは反復によってしか発見出来ないものなのかもしれない。しかし、チェルフィッチュの岡田氏とHEADZの佐々木敦氏との対談をhttp://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2006/0312180238.htmlでしのぶ氏の記憶の限り見ることが出来るのだけれど、これはポスト・プロダクションによって「自意識を消させる」事と、役者が即興的に演じることの「ヤっちゃった感」の事とが、屈託無く一緒になっちゃってて、ある意味大変素晴らしいと僕は思うんですが、僕が今問題にしているのは、どちらかと言えば、全体を管理・統括する意味でのポスト・プロダクションの事なので、若干意味合いが違っています。でも、気づかされることは多い対談になってると思います。

▼で、話を全体性に強引に持っていくと、僕が昨日の通しで感じたのは、ポストプロダクション的な視点を導入できていなかったための冗長性で、その瞬間瞬間の面白さだけで構築してしまうとやっぱり駄目だと思った。ちなみに、Wikiで『編集』を見ると、モンタージュについて書かれているのだが、その最後に大変ためになることが書かれていた。

芸術的なテクストにおいて冗長性は敵であり、いかにこの冗長性を乗り越えるかがモンタージュの、そして芸術の問題であるとした。

「であるとした」のはセルゲイ・エイゼンシュテインなんだけれど、またしてもここに、脳を整頓してくれる言葉を見出した僕は、木を見て森を見ていなかった自分に気づけれて、本当に良かったと思う。『編集』の項目に、藝術作品の冗長性が書かれていたことがとても示唆的だ。