▼フランスパンのホームページを更新しました。観てください。ぱっとしてます。http://frpn.com

▼今日は若干疲れてしまったので、僕が気付いたら敬愛していた大友良英さんの日記(同じblackboardは影響です)からの引用をしたいと思います。これ、いつか必ず引用しようと思っていたものなので、別に突拍子無いわけじゃありません。長いですが、そのまま貼り付けます。

よく、なぜジャズの編成の中に雅楽の楽器をいれるのか、それは雅楽を搾取してるだけじゃないか・・・という質問を受けます。この質問一度や二度じゃありません。でも、この問い、実は質問者自身の単純な音楽観(素朴すぎる音楽聴取能力)があぶり出てるんじゃなんじゃないかな・・・とも思うわけです。

ことはそんな単純な2項対立ではなりたっていません。これだけ人数があつまると、わたし自身にも租借できないくらいの複雑な出来事が、いろいろな場面で多面的に起こっている、そう思っています。

ジャズという名前はついているしジャズの現場で活動してるミュージシャンが多数いるのは事実ですが、ジャズの中にただ笙を加えているのではありません。笙の石川高さんは、本来の雅楽で使われている笙ではなく、現代の音楽の調律にあわせた笙を持ってきています。笙とのアンサンブルでわたしが多用してる高良久美子のヴァイブラフォンの演奏は、ほぼジャズとは無縁の語彙や音色を使っていますし、Sachiko Mのサイン波は、長い間石川さんと共演して来た中で、双方が独自に発見した響きのようなものを使っています。今までどこにもなかった本当に独特の響きです。これひとつとってもすでに雅楽でもジャズでもなく、彼等彼女等の独特の音楽です。そもそも石川高さん自身が、雅楽の手法だけではなく、信じられないくらい多彩な演奏をここではおこなってくれています。笙が雅楽、バンドはジャズ・・・みたいな状態ではけしってありません。

それでも、たしかにわたしは石川さんや高良さん、Sachiko Mの音楽を、いや彼等彼女等だけでなく参加メンバーの音楽を搾取しているのかもしれません。でも搾取というのはある力関係の中で抵抗できないような状態で、あるいはそういうことすら意識させないような状態にしておいて、なにかを掠め取るようなことを言うわけで、少なくともわたしとメンバーの間には搾取といえるような力関係は存在しないとわたし自身は思っています。

むしろ重要なのは、笙が雅楽とか、コントラバスはジャズとかいう話ではなく、石川高という人間が、水谷浩章という人間が音楽を作っているという話で、CD屋の棚のような大雑把なカテゴライズで音楽を作ったり聴いているのではないといことです。

別の言い方をすれば、たとえば同じ笙なら取替えがきくか・・・という話です。答えは明確で取替えはきかないのです。単に笙の音や手法が必要なのではなく、石川高が笙を使ってなにをやるのか、それに対して、わたしは、メンバーはどう答えるのか、考えるのか・・・という問題だとわたしは思っていて、雅楽とかジャズとか、そんな大きなくくりの話はわたしにはわからないし、そこでものを考えていないのです。

菊地成孔ONJQをやめたとき、かわりのサックス奏者はまったく思いつきませんでした。わたしは単にテナーの音がほしいのではなく、菊地の吹くテナーの音が好きだったからです。バンドにあたらしいサックス奏者アルフレッド・ハルトを迎えたときには、一から音楽そのものを立て直す、考え直す必要がありました。アルフレッドは菊地のかわりではないからです。菊地がいたときのやりかたはほとんど使えないわけで、後からはいったアルフレッドも苦労しただろうし、彼を迎えた僕等も、特に津上研太が苦労しました。僕等は何度真剣に、ほんとんど喧嘩のような状態になって話し合ったことか。でもそうやっていくなかで、今ではアルフレッドは欠かすことのできない僕等の仲間になっていきました。

カヒミさんか入ったときも同じです。ぼくらは彼女の小さな声にどう対応していくのか、これも一から考えました。いつものように自由な音量で演奏したら彼女の声はかき消されてしまいます。ツアーを繰り返す中で、モニターを最小限にする今の方法になってきたのは、彼女の参加が大きな要因です。

これだけ人数もいれば、嗜好も多彩で、相性のわるいメンバーだっているに違いありません。ONJOでは一緒にやってるけれど、普段双方がやってる音楽は今一わからない・・・というメンバーもいると思います。音楽論を言葉で戦わせたらまったくかみ合わないメンバーだっていると思います。でも僕等は一緒に演奏することができて、そこにわたしは希望のようなものを見ています。多分わたしにとって多人数のアンサンブルをやるというのはそういうことなんです。今回はここに敬愛する伊集加代さんが加わり、さらに大蔵雅恵さん、江崎将史さんもきてくれて、みんなの演奏も心なしかキラキラしてたような気がします。ひとりひとりのメンバーのことをかけないのは残念ですが、でも昨日は、一人一人の演奏がたまらないくらいキラキラしていたように思えます。

▼これ、大友さんの日記の9月17日付のものなんですが、この頃僕は非常に精神的にも身体的にもやられていたので、本当にこの文章に僕は救われたというか、ほんと文字通り希望を見たというか。演劇もやっぱ集団作業で、しかも学生劇団上がりだと人の移ろいは激しくって、中には突然嘘言う奴もいるし、いつの間にか逃走している奴もいるし。何だかこれ、大友さんの言う「相性のわるいメンバー」とは程遠い、とても情けないレベルの話なのかもしれないけれど、例えば関西で演劇をやるって事は東京に向う奴もいるわけで、演劇で食いたいくせに関西にいるジレンマとか、食いたい人は皆抱いているであろうものだと思うし、製作環境として関西(特に京都など)を選ぶ人は多いと思うけれど、そこには助成金やフリーター時給幾らとか言う問題も付き纏ってきたりして、、、けれど、まぁ、そういう事は、本当はどうでもよくって、重要なのは、多彩な人人が集まっているんだよって事で、何かを誰かと創るという職業を羨望している自分としては、大友さんの言葉に何か奮い立たされた気分がした。勿論それは、長期的な視野でしか判りえないものかもしれないけれど、やっぱいつかわかりたいし、「一人一人の演奏がたまらないくらいにキラキラしていた」創作活動を続けていきたい。それが演劇であれ、何であれ。全ては繋がる。孤独だろうが孤独じゃなかろうが。