とうそう

▼と聞いて、逃走なのか闘争なのか、通そうなのか、遠そうなのか、ま、どれを浮かべてもらっても全然いいんだけれど、スペアー公演まで半月ほどになって参りました。あまり更新してない事を友人に叱られてしまったので、ちょっと頑張って更新していこうと思う。思いのたけをどどーっと。

2LDKに住む木村の元へ、突然やって来た辻原と春子。しかし木村は二人を無条件で受け入れる。春子はふらふらと毎日を過ごし、辻原はまじまじと現実を撮影。何の接点も見いだせず、一人の時間/思考が増える三人。そんな折、春子は公園の砂場で不思議なモノを発見する・・・。役者と観客の関係性を最大限に活かし、「語りかける事」に重点を置きながら、うすっぺらな関係性の空気を、独り言によって弾ませる。人と人の間に、ぽつんと置き忘れたような感覚を呼び覚ます、伊藤拓渾身の新作。

▼上記は、机の上にたまたまあった文庫作品の裏表紙を参考に、スペアーに関してちょっくら書いてみて、プレスに送ってみたものだけれど、どの辺りがどの辺りの雑誌で採用されていくのかはお楽しみ。僕もドキドキしていますが、自分で「伊藤拓渾身の」は気恥ずかしいけれど、でもそうなのだから、しょうがない。しかし、今改めて思うのは、自分の作品を自分の言葉で語ること(特に事前に)って中々していなくって、いや、これ絶対した方がいいはずの作業だったのに、今までなぜか若干避けてきてたなぁって思いました。演劇の宣伝方法として、情報を隠蔽しておいて会場でのお楽しみにするってのがあるけれど、まぁこれも、生もの芸術としては、有効な手段なのだけれど、しかし、これだけ情報が溢れまくっている時代に、一体何を隠そうと言うのだろうか、と言う意見もちゃんとある。事実、とある制作には「台本を掲載してみては?」と言う過激なアイデアもあった。今回このアイデアは見送ったけれど、本当に色々な情報開示方法、お客様導引方法があるものだなぁってつくづく思う。勿論、お客さんがいっぱいいる事は良いことだけれど、一番最初にある純粋な気持ち、「何か形あるものを提示したい」って部分を忘れちゃいけないなって思う。多くの人へそのものを上手く提示するための考え方がそのまま売り出し方に繋がるべきで。とか色々。

▼話戻して、作品について。今回の作品、書く時にずっと「稀薄」について考えていました。そして、この考えは、チラシデザインをして頂いている兄貴に話したとき彼から「それは、つまり、捻れない稀薄さなんじゃないか?」と言われ、頭の中が本当にすっきりした思いがしました。今までの僕の作品が、比較的色々な捻れ方をしてしまっていた作品が多かったのに対して、今回は「稀薄」な作品を作ろうとより一層強く思ったのです。そして執筆前の段階で美術のサカイさんから、「公園はどうだろう?」と提案していただいた事も大きな要因で、実際公園は物語の中で登場します。全体的な物語の動機はそんなところです。

▼スペアーは三人芝居で、加藤智之は木村と言う男を演じます。本條マキは波木春子と言う女を、永見陽幸は辻原と言う男を演じます。場所は木村の家を中心にして、それぞれの妄想の世界にも飛びますし、公園にも飛びます。もう一箇所飛ぶ場所ありますが、それはご想像にお任せします。ま、安易に考えてもらえれば、正解すると思います。

▼今回、美術のサカイさんと一緒にやるという事になって、一番考えているのは、そしてサカイさんから課題のように提示されているのは、空間の使い方です。ここを見てもらえれば判ると思いますが、今回の舞台は三面の客席で舞台は円形です。いやー、サカイさん「ケケケケケ」書いてますが、これなかなかに大変で、僕は凄く対面式(お客様⇔舞台)に慣れちゃってますので、初めての円形で大変困っています。やりがいがあるので実に面白いのですが、中々腰が重くて、稽古場にて上手の客席から見てみようとか、あまりしていません。馬の目になって気分で、自分の視野を最大限拡張(マルチアングル!)して舞台を見るようにしています。で、本当はもうちょっと舞台について書いてみたいのですが、それはスペアーブログの「スペアーな美」で書かれるはずなので、しばしお待ちください。もしかしたら、往復書簡で空間把握のやり取りがお伝えできるかもしれませんが。

▼スペアーの物語は章分けされています。全部で五章です。舞台上で「第一章」とかはしませんが、何と無く「あ、ここ第一章終わりか?」みたいな感覚で見ていただければ幸いです。で、今の所第一章から第四章までの稽古をだいたい完了しているのですが、第一章が余りにも意味濃度が高くて、自分でも観ていて「ん〜ん〜」唸ってしまいます。意味深なフリって簡単に出来ると思うのですね。意味の無いフリの方が難しいというか。ついつい役者は意味深になりがちで、その意味深が長く続くと、やっぱり受け手側の持久力がついて来れない時がある。「意味深の命令」みたいなものがあって、これが出てるときは気をつけないとなって思います。文字を追う事の時間、デュレイションとか言いますが、どうしたって、演劇や映画などの、時間を直接扱う芸術って、客の生理に関係無く、時間流れちゃったりしますから。ま、どの芸術でも「体験する時間感覚」を弄られるのは、面白いですけれども。

▼色々なこと書きすぎて、何だか収拾がつかなくなってきました。あ、そういえば保坂和志の本も読みながらスペアー台本書いてました。モティーフとして、2LDKに木村、春子、辻原が何と無く居るって言うのは、保坂和志の処女作の影響が強いです。あと、やっぱ演劇におけるコトバの発しかたを考えた時に、チェルフィッチュの舞台は頭を過り捲くってしまった。あのしゃべり方(超リアル日本語とか形容されているあれ)は、何だか病みつきになってしまう。あれは、一種の病気だ。適当なワクチンを打っても、友達と話をしている自分を客観的に捉えた瞬間、またあそこに回帰していってしまう。そんな呪縛力がある。怖いぞ、あれは。どうしたものか。日常の力は絶大だ。日常に比重を置く時、人人は闘争を止め逃走していく。日常の力よりも非日常の力を信じてみる。イタリアの作家ジャンニ・ロダーリの「ファンタジーの文法」を読んで考えたい。額縁から非日常にするのか、キャンバスのみ非日常にするのか。「現代演劇とは、受け手が能動的に意味をフィードバックしていくようなもの。作り手にとって、伝えたい意味は無いが、世界の見え方を提示したい欲望はある。」と最近聴いた。脳を整頓してくれる言葉は貴重だ。ポケットに入るくらいの名言を、僕も収穫していきたい。