横槍・選択

▼稽古。今日は映像撮影も兼ねた。人の髪型を弄って遊んでしまった。童心に帰り大いに笑う。どうなることやら。

▼和やかな雰囲気かと思いきや、一転。きつい駄目出しの会。最近、僕は専ら永見・濱本への駄目出しがきつくなっている。二人とも、完全にスランプに陥っている模様。とても心配です。

▼今日は役者同士で駄目を言い合うようにした。なかなか役者同士で駄目を言う環境がFPに無いので、それを作ってみたかったのだ。正直、役者間でレベルの「差」があるのは歴然。それをだましだましやるよりも、もう今日は徹底的に思ったことを言い合おうよ、との思惑もなかなか上手くは進まなかった。結局、稽古後の呑みの席のほうが皆ぶっちゃけて話していた。悔しさをアルコールのわいわい気分で紛らわす役者たち(?)。そんな事で文字通り溜飲下げてるようじゃ駄目だと思ったりもしながら、僕も酒呑んで帰った。

▼経験値が少ない役者は真似から入って悦入る事を知っても良いかもしれない。恥ずかしい演技を避けて作ってますと言われる五反田団ももちろん好きだが、舞台上に立っている時点で恥ずかしさが無いわけが無い。本当に恥ずかしいなら、立つことすらしない。ここで言及すると、ちょっと誤解を生む恐れもあるけれど、アメリカ文学史上大変ユニークな詩人がいて、エミリー・ディキンソンっていう女性の詩人なのだが、彼女の詩の創作過程や大衆が彼女の詩を発見するに至る流れは、役者が舞台に立つという事を考える上で、とても興味深いし示唆的。彼女の詳細はwikiに譲り頭下がりますが、役者さんは舞台に立つ事をどういう形であれ「選択」したわけだから、舞台に立たない人たちと比べて、それ相応の「何か」が「決定的」に違っていなければならないと思う。舞台に立つ人・それを見る人。その関係性が出来た時点で日常空間とは「何か」が「決定的」に違うことはピーター・ブルック読めばわかった衝撃の基本事実だったのだけれど、舞台としての板に、与えられた台詞に、自分が立っているという事実それのみに、安住しちゃってる役者が多いんじゃないだろうか。街中歩いてる一般人観てるほうが何倍もドラマがある。異論反論あるとは思いますが、科白を読むって事は、どこまで行っても演技しているわけだし、科白が無くっても、客を意識するとき、人は多少なり演技しているわけだから。演技してない人を見る楽しさもあるけれど、その演技してない人を演技できるかって事もあるので。色々ややこしくなってきたので、参考にgoo辞書から「演技」の項参照して締めます。ちなみに、僕は中途半端に「演技」っぽい「演技」は嫌いです。嗚呼逆照射。やっぱ越えないと、何かを。抽象的になってきてますね。反省。勉強します。

えんぎ 1 【演技】
(名)スル
(1)俳優などが舞台で芸を演じて見せること。また、そのわざ。
「悪女役を巧みに―する」
(2)スポーツや競技で、一定の方式にしたがって、選手が演じる技。
「模範―」
(3)いかにもそれらしく振る舞うこと。いつわりの態度。
「彼女の涙は―だった」
三省堂提供「大辞林 第二版」より

補足:ただ、これだ!って役者論なんて、どこまで行っても無いし、誰もあるなんて思っちゃないですよ。僕はそう思います。

補足2:ただ、これだ!って思える自分なりの役者論は演出家であれば持つべきだと思います。

補足3:ただ、今日の日記は何故だか書いた本人も無性に腹立たしいし、消去しようとも思ってしまったような内容ですので、役者やってる方でこれ読んじゃった方はこの記述一蹴して、僕を完無視、だって楽しも〜ん、から入りたいものです。アソビを忘れずに。童心に帰る帰る運動。