辞色

▼辞色とは言葉つきと顔色の事らしい。

▼最近、私の回りには何かと辞職する人が多い。ええ、私の勤め先でも多いのだ。どうしたものか。やっぱり時給力と持久力は密接な関係がありそうだ。モテナイ遊びをしているに見えるが、案外こういった遊びに真実は隠されてたりするのだ。で、私は余りお金に頓着しない性質なので、のうのうと働いてたり生活したりしているが、やっぱり人が辞めていくと言うのは哀しい。辞職って言うから、何か固いイメージだし、実感が沸かないから、これからは「辞職」を全て「さようなら」に置換しよう。

「○○部長、私、本日をもって、さようならしたいと思います。」

どうだこの哀愁感。とても哀しいじゃないか。人間らしさってのはこういう事なのかもしれない。つまり糸井重里言うところのオトナ語を如何に無意識下でコドモ語に変換出来ているか。これは、案外とっても大事な事だ。どんなコンテクストに置いても、言葉は差違の中で培われたであろう表層イメージと過去の記憶から辿る事の出来る深層イメージとの間でゆらゆら彷徨しているはずだ。実は母校の大先輩である日比野克彦氏のエッセイの中で、「自分だけの赤色がある」、といった話が確かあるけれど、それをふと思い出す。私も私だけの赤色を探り当てたい。

last.fmという機能を薦められたがままに使ってみる。(ちなみに私はWEBとかPCにめちゃ疎いが)、なるほど、似てるアーティストを流すと言う意味ではpandora.comに近いかもしれない。だけれども、ずっと聞いていると、全然似ていないアーティストの作品が流れ始めるから面白い。これは、伝言ゲームに近いのだろう。どんどん情報が薄まり、終いには何が何だか判らなくなる。私はためしに、last.fmにovalといれて聞いてみたが、最終的にエミネムが流れてきた。少し理解に苦しんだが、その情報の流れを改めて考えてみたときに、結構これは興味深い思考経路が辿れるんじゃないだろうか。もしも、僕が、gang of fourとか入れて、それがいつしかエルトンジョンになっていたら、どうだろうか。これは、どこかで呆然とした作為が働いていると考えるしかないじゃないか。呆然とした作為。そう考えないとやってられない。呆然とした作為は、気付かぬままにいつしか政治に取り込まれ、何かでかい話に我知らず荷担しかねない。呆然とした作為なんて意外とこの程度なのだ。だから、ギャングオブフォーとエルトンジョンを繋ぐためには、覚醒した作為が働かなければならない。特にそういった無関係に思えるものを連結したく無い人は、覚醒した作為で持って、日常生活を見つめなおす作業から入ると、いつしか世界は健気に平和になる。僕は何の話をしているのだろう。嗚呼last.fm。名前が哀しいぞ。last samuraiがlast.fmでワムのlast X'masを聴く。そんな事があれば、いよいよ大変だ。悲劇的、と言っても過言ではない。