「決定的な失策に補償などありはしない」

で、今回久しぶりにA級MissingLinkの芝居を見た。「決定的な失策に補償などありはしない」なかなかタイトルも嫌いじゃない。パンフには蓮實重彦とキングクリムゾンの話がちらりと載っている。で、僕はこういった言葉を使ってくる人に対して、ある種の警戒心を持ってしまう。蓮實重彦好きだし、クリムゾンだってアビーロード抜きやがったくそぉって思った中学時代があったけれど、あの辺の所謂重鎮的ワード(ってこんな形容は失礼極まりない。。。)を出すと、必ず読み手/観客は構える。なまじちょっと知ってる人こそ構える。逆に全然そういった固有名詞に疎い人は幸せかもしれないけれど、やっぱり蓮實重彦の文体が持つあの攻撃的なペダンティスムからわかるように、そして彼の提唱する映画的記憶(だったかな?)でも明らかなように、アート鑑賞においてある一定のリテラシーは確かに必要だと思う。だからこそ、僕はかなり構えて肩凝りながら観初めた。すると、物語冒頭、いきなり主人公らしき役者が蓮實重彦大好き阿部和重の小説タイトルをずばり言う。嗚呼びっくりしたよ僕は。確かにパンフの淡々としたキャラクター表もシンセミアっぽおいと思っていたたけれど。(勿論、あれが昔からある典型的な文学的所作なのだろうけれども。はてさて真実はどうなのだろうか。って深読みしてしまった。)
ま、以上は僕の苦手とする脚本部分での話であって、演出の話だとまた色々あるんですけど、演出的視点で一応言いますと、シーン事にゆるみ方が上手いなぁって思いました。ゆるみ方が上手い分、締め方はゆるい気がしましたが、それは想像力で補うって事でしょうか。役者にもっと期待したい部分ではあります。蹴り一発蹴られるシーンありましたが、あれだけゆるむシーンの比重が重い?のならば、もっと思いっきり、えぇどうなのあの蹴りは!?、ぐらい蹴った方が個人的には気持ち良い気がしました。役者個々人の話になると、主人公っぽい人二人のゆるみ方はとても個性的で良かったです。特に、幸野影狼さんはどろどろのシチューみたいで良かったです。あと、高校生役の方の顔に始終僕は萌えてしまい、これはいかんな、と思いつつも、ついついアンケートに「高校生萌」と書いてしまった。あとでお声をかけたら、快く会話してくださって、大変嬉しい思いをしました。いやー、目が素敵でした。
と、クドクド書きましたが、全体的に以前観た作品より、今回の方が断然面白かったです。久しぶりに比較的同年代(僕よりちょい上だと思います)の人の芝居みて、心地良い刺激になりました。ただ、しきりに僕は「賢明であること」の意味、そして「ドラマ性」についての意味、「演劇表現への果敢な挑戦」の方法論をずっと考えてしました。答えはちっとも出てませんが、K先生のブログを読んで僕の頭はかなりすっきりしました。

ついでにA級さんのWEBを検索してたら、A級MissingLinkさんのホームページにて昔やった座談会のデータが残されていました。ああいうの良いなぁ。まずはパンメンバーでやりたいと思う。うちのスペシャルって場所に載せる予定で。いつかやります。参加したい人、メール下さい。深夜四時、徒然書きました。失敬。

▼と一旦書き終わったけれど、16日日記のHenri Cartier-Bressonとの繋がりが全然無かったので、ちょっと書き足します。作品の中でこの写真家の名前が出てくる箇所があるのですが、それが何故Henri Cartier-Bressonである必要性があるのかが、なかなか見えてこない。彼が「決定的瞬間」を捉える写真家であった事は周知の事実あるが、その「決定的」である事がタイトルにしか被せられて無いとしたら、それは些か拙い行為だと思う。まして、パンフ冒頭にて蓮實重彦の名をあげるのであれば、もっと「決定的」な衒学性を駆使して、メタ衒学的グルーブみたいなもの(はあるか知りませんが)を造り上げて欲しかったです。