taku_ito2005-09-19

作品の良し悪しと制作時間の長短には何の関連性もない---アメリア・アレナス「なぜ、これがアートなの?」

絵画論の良し悪しと思考時間の長短に関連性があるのだろうか、とふと想う。この著書の第一章「アートの神話」と題された最後の部分で、アメリアさんはマルセル・デュシャン「泉」について思考する。以下抜粋。私は、思いっきり笑った。

『男性が放尿している姿を、これほどにもはっきりと連想させる作品。(中略)しかしよく考えてみると、男性用公衆用便所ほど洗練された場所も、そうざらにはないかもしれない。家庭のトイレとは異なり、まるで展示室の内部のように、個性も無駄もいっさいなく、無機質でしかも機能的だ。このような場所で用を足す男たちの行為は、美術館で作品を鑑賞することととても似ている。すなわち公共の場でおこなう個人的な体験、他人のかたわらで、壁にかけられた作品をじっと見つめるごとく、壁に備え付けられた便器の前に立って(たいていはそれを見ながら)おこなう行為。』

アメリアさん、大丈夫だろうか。この絵画論執筆にあたり、何か嫌な事があったとしか思えない。しかも、最後の括弧は何だ。『(たいていはそれを見ながら)』。・・・・・・アメリア。。。貴女の思考時間の長短と「泉」の解釈には何の関連性もないことを私はひたすら祈る。思いつきで書いたならぶっ飛びだし、考えに考えて書いたなら、それもまたぶっ飛びだ。でも、ぶっ飛ぶ姿勢は大切だと想う。間違っていると想っても、ぶっ飛んでるから言ってみる気持ち。英語初心者がミスも恐れず会話するような気持ち。思い切り。いい言葉だ。「泉」もまたぶっ飛んでたではないか。現代アートって何?と想う多くの方々(私も含め)は「泉」を見て、思考時間の長短はどうでもいいから、何か思いを巡らせてみよう。私も「泉」を考える姿勢を持とうと想った。ぶっ飛ぶために一番必要なのは、酒でも薬でも無く、己の思考だと知るために。