「消失」

今東京の六本木では、僕も以前ちょびっと指摘した飴屋さんの展示が大騒ぎだけれども、「消失」をテーマにしたその展示会の事を調べるたびに、僕は自分の中における様々な事象の「消失」を考えずにはいられない。

時間
お金
人々
感情

まぁ、飴屋さんの展示の意図はこんな下世話な話題ではなくて、とか野次られそうですね。だって、展示の「消失」とは自動詞としてよりも他動詞として働いており、「何かが消えてしまった」ではなく、「何かが消されてしまった」と言う思考回路を辿っているから、僕の話題は全く論外かもしれません。でも、この間母が電話で言い放ちました。

「あんたが、選んだんやろ!」

そうです。僕が選んで、アカデミックな時間もバイトにかける時間も「消して」いるのですね。凄いぞ母。「あったはずの時間」「あったはずのお金」を「消し」た事で、一体何が生まれるのか。ポイントはそこなんです。そこに希望を見ずして、何を見るのか? 

『僕は・・・それはおそらく、幸せのためのささやかなテロ、のようなものになるに違いないと・・・その消去行為の先には、絶望ではなく、必ず希望があると・・・僕は信じています。 』
http://www.phouse-web.com/main/archives/000013.html

ほんと、飴屋さんの「消失」に関するイメージとは、大分かけ離れた文脈で僕は「消失」を意識しているかもしれません。実際、会場に足を運んで無い僕があれこれ論じるのは可笑しいでしょう。
でも、何かが「消失」するという単純だけど切実なイメージを生々しく体感させてくれる飴屋さんの展示作品(だから、僕は行ってませんけどね)は、金欠の僕にとって、また僕を含めた身勝手に疾走する若者にとっても、かなり大切な意味を孕んでいるのではないだろうか。