ナク

 うちの家の周りには木が一杯あるので、朝になると蝉が鳴き始めて騒々しいです。けれど、奇妙な静謐さで覆われてる夜よりも、蝉の合唱聞きながら陽光の中眠る方が心地良い気もします。寂しがりの寝方です。昔はNHKの深夜放送(自然の映像や町の映像を甘美な音楽に乗せてお届けする中毒性の高い番組)を付けたまま眠っていましたが、最近は夏蝉と深酒(頂いた泡盛)が添い寝の友です。
 

 幼少の頃から寝つきの悪い子でした。布団の中でずっと「今日は何をやり遂げたか?」みたいな命題をうねうね考えて眠れない子でした。今でもそうです。「明日は何をやり遂げるか」なんて希望を持って眠る事はまず無い子でした。「昨日は何を・・・」なんて語るほど記憶力が良い子でもありませんでした。
 つまり、僕にとって「今日」が最も大切な問題であり、「今日」以上にリアリティを感じさせてくれるモノは無かったのです。それは今でも決して変わりません。これを単なる刹那主義だと決め付けてしまうのは全くの誤りです。当たり前すぎる話ですが、「今日」を絶対的な基点にしてこそ、「この先=未来」が敷かれて行くのだし、「この前=過去」の軌跡を辿っていけるのです。
 ここで話を僕と蝉との関係に戻しますが、僕にとって蝉の「鳴き声」は生まれ死んでゆく全ての生物の(俗な表現ですが)「魂の叫び」に聞えます。まさに「今」を生きている存在として蝉は「鳴き声」を上げているのです。この「鳴き声」を「泣き声」に変換して、安易なロマンティシズムに走るのは愚直ですが、しかしやはり「泣き声」も人間にとって一種の「魂の叫び」なのだ、と考える方が、人間としてクリーンだと思います。
 ちょっと話が人間味溢れる話(でもない?)に逸れちゃいましたが、つまるところ僕は、自分自身が「魂の叫び」を上げているのか否か、という問題を蝉の「鳴き声」を聞きながら考えているんだと思います。それを単なる「生」への応援歌だと言い切ってしまえば、ただそれだけの事かもしれません。しかし逆説的ですが、一週間足らずで死んでしまう彼らの応援歌は余りに日常的で(平凡で)、切実に聞こうと思えば聞える程度のモノでしかなく、結局ただの虫の音にしか聞えなかったりもします。大多数の人々にとって虫の音は無視されるわけです。けれど「魂の叫び」の問題を抱えている僕みたいな人間にとって、虫の音はまさに無私であるが故に無視されている、と気付く瞬間が訪れます。無意識的であれ意識的であれ、そのように「ナキ声」が聞えた瞬間から、その人は「昨日」のその人よりも、しっかりと「明日」を見据えて「今」を考える事が可能になるのです。「明日」の来ない「今日」など無いし、「昨日」の無い「今日」など無いのだから。

注1:などと書いてるうちに、深酒への反省がどっと沸いてきたりもした。明日アル中で死ねるか?と問われれば、否、と答えるしかない。そんな僕に反論の余地は無い。でも断酒して「今日」を捨てるのも違う気がする。時制のバランスですかね、結局。ま、アル中になるほど呑んではないのですが。

注2:書いてる途中から、完全にあの人の文体じゃん!、と思ったりもしましたが、こういう真似時期があっても大丈夫でしょう。糧になれ。しかし、なんて当たり前の結論。捻りたいっ。

注3:お受験、頑張りましょう。違うか。