おそらくすがるものは、たぶん無い

▼昨日何を食べたのか即答出来ないばかりでなく、2、3分考えてやっと出てくる程度である。一昨日食べたものとなれば、2、3時間考えても思いつかないばかりか、そもそも2、3時間も考えることが出来ないし、絶対に途中手近な物事に意識が移り、移った意識もまた別の物事へと意識が奪われ、まるでわたしの意識はバスケットボールかサッカーボールの如く、プレイヤー間を行き来する、その時わたしは何人のプレイヤーで構成されているのか、全くわからない。わたしは一人なようでいて、全然一人ではない。でも昨日は彼女とご飯を食べたということを覚えている。何を食べたかよりも、誰と食べたかを覚えている。そのことに安心して良いのか、やはりわからない。わたしは、何かにすがって生きているようでいて、おそらくすがるものは、たぶん無い。そんな決意というか覚悟だって、しょせん自意識の一種で、この文章も自意識が高いのだろうから、周りの人に気持ち悪がられるかもしれない。と自分で判断するしかないのだけれども、これを書いている自分が気持ちがよいのはなぜ? おそらくすがるものは、たぶん無い。でも自分にすがっているということにすがっている自分は、どこか気持ちがよいのかもしれない。といった物言いしか出来ないわたしは、不確定な事を自分の周りに防壁の如く築き上げてるつもりだろうが、そんなものすぐに壊されるし、すぐに壊されろと囁く声が近くですると思ったら、案外でかい声でびびった。