▼京都舞台芸術協会メールマガジンを私は購読している。購入してないから購読ではないか。無料購読ってコトバがあるなぁ。とかまぁ、ごちゃごちゃ考えるのは止めよう。とにかく、そのメールマガジンの中に公演レビューがある。それが今回、いつも面白いのだけれど、今回の17号が特に面白かったので、ちょっと書く。(大阪現代舞台芸術協会もこういったメールマガジンを発行したらどうだろうか。ノーギャラじゃなければ、僕も手伝います。)

▼今回、レビューしたのは、遊劇体のキタモトさんである。対象はハイバイ『リサイクルショップ「KOBITO」』。キタモトさんが書いたハイバイレビューの冒頭は、以下のように始まる。(尚、以下キタモトさんの事を敬称無くすとこもそのままのとこもありますが、それは「れ:レビュ」=「Re:レビュー」的な事としてお許し下さい。)

「ハイバイ」を観た。『リサイクルショップ「KOBITO」』というタイトル。何の予備知識もなく、さあ観てやろうなんて気負いもなく、金田さん*1が推薦しているのだからということで不安もなく、初めて目にする昆虫を観察するようなつもりで観た。

ここでわかることは、金田さんが推薦するものは、良いらしいって事だ。大阪の小劇場で、ライターの力は強い(と思う)。金田さんもそうだし、小堀さんもライターだ。ライターが大きな権力を持つこの妙ちくりんな構図は、いつかどうにかしなければならない。と私は個人的には思うが、アーティストが良い作品作ればいいだけの話なので、まぁ特に突っ込まない。ちなみに、*1ってのは、注1って事ですが、気になる人は、自分でメールマガジンを申し込んで下さいね。とりあえず、先へ進みます。以下、キタモトが正直に自分の感想を記している箇所であるが、ここに大阪演劇界を考える上での重要なキーワードがあると思う。

ねえ、置いていかないでよ、って最初は思った。だって観客をまるで意識しないで台詞を発しているように感じたからで、ああ、これは平田さん*2の発明した客観性の演劇という手法の、その延長線上にある演劇なのだなと思うのだけど、この感覚は「五反田団」*3をアトリエ劇研で観たときと似ているし、精華小劇場で観た「柿喰う客」*4にも似たテイストを感じた。きっと仲間なんだろうな。そしてその仲間たちが東京で繁殖しているのだろうなと想像した。

この「置いていかないでよ」というのが、大阪小劇場界(そんなものがあるとか無いとかどうでもいい!?)を考える上で、良い感じのキーワードだ。ここでキタモトは、「観客をまるで意識しないで台詞を発しているように感じた」と言っているが、ここはもっと追求して考えると、いよいよいろんな事が明白になる。つまり、「観客を意識しながら台詞を発する」とはどういう状態を指すのか、って事だ。演劇も多様な形態があるので、「観客を意識しないように見せかけて実は巧妙に観客を意識して台詞を発する」作品もあれば、「本当に観客を意識しないで台詞を発する」作品もあるかもしれない。しかし、その二つは似ているようで全く違う、って事は誰でもわかるだろう。この違いは、平田オリザ提唱「現代口語演劇」系譜である(と思われる)チェルフィッチュ五反田団ポツドールのテキストを見れば明らかであるし、勿論ハイバイの作品も「現代口語」を組み込んだ(というか、それが当たり前にある)作品であった。だから私は、最初からハイバイに出演している人たちが「観客を意識して台詞を発している」ように見えた。(個人的には、精華小劇場で観た「柿喰う客」は、過剰に観客を意識して台詞を発しているように感じたので、直系的な『仲間』とは感じなかったが、意識の過剰さの組み込み方は、少なからず一つの成功例だと思える。)

さて、ハイバイの作品を観た大阪の観客で「置いていかないで」と感じた人が何人いたのか、私はとても気になる。先述したとおり、ハイバイ鑑賞の際、私は全く「置いてけぼり感」は無かった。それはつまり、私の演劇観の中で「観客を意識しないで台詞を発する」事が、演劇デフォルトになっているのだ。そして、この演劇デフォルトは、演劇的知や今まで自分が触れてきた演劇鑑賞体験などで、かなり変わってくる(って当たり前すぎる話で恐縮)。大阪に現代口語演劇が少ないのは、この演劇デフォルトが、充分な思考を経ずして「観客を意識して台詞を発する」と言うことに、ここ何十年となっているからではないか。

意識する/しない、ってのは正直傍目ではわからないかもしれない。しかし観客を意識したとき、戯曲レベルだと、台詞が説明調になるという、極めて明白な判断基準がある。しかし、俳優レベルだと何が言い当てはまるのか。バカバカしいレベルまで低次元に考えると、以下のような項目が、誰の目から見ても明白すぎる程「観客を意識する」って事になるだろう。
・前を向いて台詞を台詞を発する
・ゆっくりと、丁寧に、滑舌よく大きな声で台詞を発する
・一人が話している時、他の人は話さない、ように台詞を発する
・直喩的ボディランゲージを過剰に付して台詞を発する

皮肉なことに、大阪で芝居を見ていて、上記のような項目に当てはまるお芝居が多い気がする。これはキタモトもレビューの中で指摘していることだ。(但し、最近はあまり僕は作品見れてないので、何か違う事があれば教えて下さい。というか、違う事あるに決まっているはずです。)上記4項目は、作り手が観客を意識しての事かもしれないが、これではまるで演劇の観客は、過剰にテロップを流さなければ意味が伝えられないTV愚者と同じ扱いを受けているに等しい。わざわざ劇場まで足を運ぶ知恵がある観客なのである。自動的に無意識に(?)大量のテロップを流す必要は、もう無いんじゃないか。少なくとも、無意識的に台詞を垂れ流すのは、もう止めにしませんか? とまで言わなくちゃ行けないほど、テロップがこっちに流れ着いて絡みついてくる現状が大阪にはある(?)。だから劇場から人は遠ざかったりする。

さて、キタモトがレビューの冒頭で展開しているのは、正直な彼の『今の』演劇観である。(僕は精華小劇場のシンポジウムでキタモトさんの話を聞いたとき、彼の正直さに驚いたし、とても感動した。それはここでも書いた記憶がある。)しかし、レビュー後半になってくるにつれ、キタモトは「置いてけぼり」感覚から、改めて新たな、しかし元々わかっていた一つの演劇観をちゃんとアップデートしている。

なるほど連れてってくれないのね、と納得してからは、なんとなく距離をとって舞台を眺めてみる。するとこの芝居は俄然、オモシロくなってきてしまった。 〜中略〜 演劇とはこういうもの、こうすべきものなんて思い込みで、テレヴィ・ドラマのようなモノガタリをナントカ舞台に持ち込もうと腐心してみたり、過去のスタイルが最良のものと妄信して、無意識にそのスタイルに近づけることしか成されていないようなのをよく見かけるけれど、演劇っぽいモノをつくるのと<エンゲキ>することとは本質的に異なるのだ、というアタリマエのことを、この集団が自覚していると確信できた。

ここで重要なのは、従来の演劇とは違う文脈でキタモトが「エンゲキ」と記述していることである。この文脈での「エンゲキ」は、ある種演劇の始源的な部分を謂っているため、根本的に新しい文脈とは言えないかも知れない。しかし、これは今後の大阪小劇場界を考えていく上で非常に重要な意味を持つ。「演劇っぽいモノ」と「エンゲキ」を隔てるものを考えていく事は、演劇っぽいモノにこびり付いた錆や垢を根刮ぎ落とす=還元的に演劇を思考していく、という事である。例え「ねえ、置いていかないでよ」と思われたとしても、結果的に「エンゲキ」を思考/試行していくこと。現代美術を見て「ねえ、置いていかないでよ」と思う人は少ない。現代演劇もそうなれば良いのに、と思う。みんな、置いてけぼりを食おうじゃないか。置いてけぼられた人は、そのうち付いてくる。そう確信しなければ、エンゲキが社会から置いてけぼりを食わされる意味が無い。そのうち社会も追い付く。そう思える意志の強度を隠し持って、慎重にしかし大胆に行動すること。私は「エンゲキ」という記述に、新たなオーサカを観た気がした。