料亭おもちかえり

▼顔を合わせた。出演者、スタッフの多くが集まった。最後は、コアメンバだけ残ってイロイロ話す。

▼稽古も出来た。チラシは間もなく。美術プランもちらっと。面白そうだ!

▼各方面にイロイロとメールせねば。一つ一つこなすしかない。

▼稽古場見学のメールがちらほらと。理由欄書くところあるんだけれど、あそこに人が出るなぁ。ま、お気軽に申し込む制度なんで、どうでもいいんだけど。いろいろな人がいて面白いんですわ。しかし、僕の方向性として、全部肯定していてもいけなくって、それは人の話じゃなくって、作品の話で、これは否定しときたいってモノともっとぶつかっていかないと。と個人的には思っている。好きなものばかりに触れると、なまってくるので、全然関係の無いものに無理矢理触れてみて、そこから何かを足し引きして考えたいって、最近個人的にそう思っています。何かを愛すのは、意外に簡単で、徹底的に嫌う方が難しいし、精神的負担も大きいはず。そういった境地から私は外れようとしていたのかもしれない、と思うとCTTのやりがいってもんが出てくる。じっくりとつきあってみて、そこから見えるモノを評さなければ。じっくり見るってのが、やっぱり演劇の面白い所で。大阪では、エンタメ、現代劇が生き別れの兄弟みたいになっちゃってて、極めて不幸なんだけれど、もっとチャンプルしろって思う。マクドと料亭しかありませんよって状態(この喩えどうなの!)は、食欲を全くそそらない。マクドを出す料亭が合っていいし、料亭をお持ち帰りしたっていい勿論スマイル0円付けて。また、この現象とは別の角度で検証した場合、昔あった美味しい料理のドツボにはまり、今それが本当に美味しいのか全然分からないが、まぁとりあえずその料理がんばって作ってまっせ、みたいな場合もある。料理で喩えているので、話がぐちゃぐちゃだけれど、今日僕が京都までの電車内で読んでいたWBのビョートルが凄くいいこと言ってて、古典の新訳が出てくるのは当然だと。それは、言語というものが常に更新されているからで、新訳が出ることはちっとも驚く事じゃないし、むしろそれは当然である。といった内容だったのだけれど、これは作品にもいえる事で、例えば本当にタイムマシーンが出来たとして、シェイクスピアが一座を引き連れてハムレットなど21世紀の私たちの前でやったとしても、今の私たちから見て、どれほど何かを感じ取ることが出来るのか(目新しさ、という意外の点で)。作品を見ている時間や、作品について考えている時間よりも、日常的に過ごして流している時間の方が圧倒的に多いわけで、そういう意味でほとんどの人が今を生きているわけなんだけれど、今にそぐわない何かって絶対にあって、その辺の微妙な感覚は、バックトゥザフューチャーでも見て下さい、としか言いようが無い。(そういう意味でチャックベリーは時代を越えた。)話が全然分からなくなってきたが、それは僕が今朝5時を迎えようとしているからで、白ワインの瓶も空だし、もうここで終わろうと思うけれど、今の私たちが出来ること、とか大それた事を考えている訳でも何でも無く、僕は人と「今何がすき? 何が面白い?」という話をするのが、凄く好きで、それがずっと変わらない人は殆どいないんじゃないか。未知なるモノへの興味って話になってくるのかもしれないけれど、何か決定的な作品に出会った人が、それ以後作品鑑賞をやめるかっていったら、ほぼやめないと思う。昔、バイト先にいた先輩で、決定的なアダルトDVDがあったから、俺はもうアダルトDVDを見るのをやめるって人がいたけれど、どうなんだろう、そういうのは。美術、音楽、映画、文学なんでもいいけれど、アートといわれているもので、打ち止め、的な現象は起こりうるのだろうか? はたまた、興味なり愛なりを打ち止める事は、その人の人生にとって、はたまたその作品にとって、幸福なことなのだろうか。人は、作品が有る限り、見続けるし、考え続けると思う。このお茶を飲むともうほかのお茶は飲めません、といったCMが昔あったが、たまには不味いお茶も飲みたいだろう。カップラーメンの社長か誰かが凄く上手いラーメンが出来たときに、それを作った人に怒ったらしくって、社長曰く「うますぎる!!!」だったらしい。上手すぎるとすぐに飽きられるから、ある程度の上手さを作れって話だったとのこと。ま、つまり人は強欲になれるし、強欲であった欲しいと思うし。時間が積もるように、興味や愛がどんどん蓄積されたり、外部へ拡散していくってのは、大事な事じゃないのかなぁ。固まると、凝るからなぁ。集団の凝りをほぐすって意味で、主宰は鍼灸師である。俺は鍼灸師だ。熱かったり気持ちよかったり痛かったり、いろいろある。