桃園会/お顔

会場ウイングフィールド。技法として新しい試みをしているかと言えば、特別そう言う事はないのかもしれない。しかし、今ここにきて深津さんが桃園会として他人の戯曲を演出し、(あたかも)さらりとこういった作品をやってしまう様が素敵だ。特にラストの演出が一つのお手本のように僕は感じられた。未見で見ようと思う人は以下読まないで下さい。
で、ラストは結局冒頭と同じ構造になってて、正直冒頭の技法(ウィスパーこしょこしょ)だけで終わってしまうと、恐らく片手落ちなんだろうけれど、ちゃんとラストで歪な印象を、言葉と顔へのタッチのみで醸し出すってのが、良かった。ちょうど前日に僕はジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」を見ていて、ゾンビってのもただただゆっくり歩くだけの気持ち悪さで、歩くだけで気持ち悪さを表現出来るのと同様に、お顔のラストも顔に手を当てるだけで、気持ち悪さを提示。そういった単純さが逆にイメージをかなり膨らませてくれる。面白い。イメージの蛇口全開。ディスイズ演劇。勿論、そういった事を可能にさせている要因の一つとして、佃さんの本が土台にあるって事も指摘されるべきで、特に中盤の妻が中央に立って回想するシーンは、観客の橋休め的時間であり、物語の要ともなっている。あのシーンは正に職人技だと思う。
演劇外のお客さんまで考えるって事は、結局こういったエンターテインの要素が必要で、通常言われるエンタメ芝居っていう、使い古された重苦しい言葉じゃなくって、「もてなし」としての創意が必要なんだって事に僕は改めて気付いた。お客さんに媚びるって事じゃなくって、色々なレベルでの「もてなし」を意識する事。それが出来る人間になってから、お金を取る事が大事なんじゃないか。町田町蔵(現町田康)は、そういった「もてなし」が全く感じられないような、恐ろしいライブ伝説を数多残しているが、それも彼なりの「もてなし」だったと思える、少なくとも僕は。ま、とにかく「もてなし」ですよ。

追記
余談になるが、赤塚不二夫の残した名言「これでいいのだ」は、ファンたちへの最高の「もてなし」の言葉になっていると思う。尊敬している人がまた一人あっちに行ってしまった。赤塚先生、僕にもドラえもんのサイン下さい。
http://www.koredeiinoda.net/so-times/2008/08/post_90.html