雨、うどん屋で読書

▼今日はかなり雨が降った。雨粒が大きかったので、東南アジアのスコールみたいだったと、見たことないけれど。しかし雨粒は大きい方がなんだか抒情的だ。彼女の目は大きかったとか浪漫な事から、跳ね返りが大きい事からの哲学的思索とか。僕だけかも知れないけれど、ミルククラウンみたいな現象は、アイデンティティの拡散を思わせる。唯一無二なものなんてない。あんな感じで自己は拡散され、外の世界へ飛び散っていく。その拡散の波動が他人にも伝わり、その人の自己もミルククラウン。その隣の人もミルククラウン。皆一緒にミルククラウン
▼人間にとって平等とは何かを考えた時に、僕はまず雨が降る現象を思い出す。お日様は環境権云々隣のビルめ、日が照りませんですの!、みたいな事がおこるけれど、雨はけっこう平等だ。誰の上にでも雨は降る。「誰の上にでも日は昇る」みたいなフレーズよりも数百倍こっちの方が真実味があると僕は想う。さらに、自己の境界を皮膚に置いた場合、液状のものがその皮膚に降り注ぐ事は、自分と他人の境界が雨によって侵犯されるって事だ。それは、とても心地良い。性的結合、セックスだって、乾燥した状態よりも、湿気ある状態(つまり液状の物質により互いのキワの境界線が曖昧になる)の方が、自他のバランスが心地良く乱れる。ローションの話では無いけれど、そう想う人はそう想って貰っても構わない。だって、それも別に間違っていないと想うから。つまり、体液、唾液、汗、ローション、雨、何でも良いけれど、液状のモノを互いに共有する事は、その人と何処かで深いつながりを持つだろうって事。風呂仲間しかり。
▼またタイトルと関係ない話をしている事に気付いたので少し戻すと、今日は兎に角雨が強かったので、僕は雨宿りのために、駅と僕の家との中間地点ぐらいにあるうどん屋に入った。で、傘を持たぬ僕はびしょ濡れになったジャケットやら乾かそうと想ったのだけれど、うどん屋はとても湿気が凄い。何でこんな当たり前の事に入る前に気付かなかったのだろう。これは一本取られた!って誰に取られたのか、独り勝手に心の中で苦笑したのだが、店員は陽気に僕を迎えてくれる。ついつい長居してしまい、すぐに出るのも悔しいので、うどん屋で本を読んだ。1時間ぐらい。変な客だ。雨宿りにうどん屋は良くない。