想像力の幅

隕石少年トースター/王様の犬とその側近と宮廷人、観劇評。
僕は作り手なので、余りごちゃごちゃ書かないほうが色々と身のためですが、やや思う所あって書きますた。

『想像力の幅』

想像力の幅と言う言葉がある。平田オリザ著「演技と演出」(講談社現代新書)の124頁から頻出する言葉である。この言葉を理解すれば、どうして判り易過ぎるお芝居が退屈なのかが分かる。岩波ジュニア並に平易な言葉で書かれた良著から教えられる事は本当に多いから、是非読んでみて下さい。しかし、私だって何か発言したい。だからこの小文の中でまず、何故観客が劇場に足を運ぶかを私なりに考えてみたい。
そもそも芝居を観に行くには、それが上演されている会場までわざわざ足を運ばねばならない。文字通りご足労願わねばいけないのだ。これは読書体験、TV体験、TSUTAYA体験、ゲーム体験、ネット体験等とは全く違う。戦後生まれで、今挙げたような体験を全くしていない人など皆無に近いだろう。自宅には/自宅付近にはエンターテインされる要素が有り余るほどあるのだ。しかし、何故人は劇場へわざわざ向かうのか。観客を劇場(何かが起っている場所と言い替えても良い)に向かわせる理由は幾つかあるだろうが、恐らく一番の理由は、「(良い意味で)感情を(強く)揺さ振られたい」からであろう。こんな事話すのも恥ずかしいのだが、自分の世界だけに引篭もれる(便利な)時代だからこそ、LIVEを実感できる作品の提供者たちは、この意味を強く認識しなければならないと思う。
先日観た芝居は、その点を踏まえていない作品に思えた。ピクニック感覚で鑑賞すると言うのがその劇団の定則であり売り文句らしいのだが、その点は触れない事にするが、演出面において「想像力の幅」が非常に狭い芝居であった。皮肉に思えるがその狭量のみ劇的であった。観客に何ら想像させる箇所を作っていない。全て観客には了承済みであるし、段取りが淡々と進んでいくようなお芝居。安心して笑えるコメディと評したくとも、私には安心して見守るコメディにしか思えなかった。それも一ジャンルを築く余地はあるだろうけれど。。。
全く私好みの芝居で無かっただけなのかもしれない。悪意の無いクリーンな世界観、胡散臭い宗教じみた会話の流れ、抑制された演技、そういった過剰な優しさで充満した舞台。そしてそれに何故か全面的な賛意を表す観客たち。僕はその場に居合わせて大袈裟ではなく少し戦慄してしまった。どうしてこれが?と怖くなったのだ。
しかし、改めて考えてみると、観客が完全に理解出来ると思える芝居は、ゲーム感覚に似ていて、それはそれで楽しめるのかもしれない。Aボタンを押せばジャンプするし、Bボタン押せばモノを投げる。そんな感覚で、「あの人、うん、ほら椅子に座って、はいこけた(笑)」と思いながら芝居を眺めていたのではないだろうか。完全にコントロール権を握られた舞台。仮にそうであったとしても、私が依然問題にしたいのが、「AボタンとBボタンを同時押しするとジャンプしながら蹴りを3連発」みたいな単純な驚き(想像力の幅を振り切る状態。支配者の優越感)さえも感じられなかったことである。少し論理がぐるぐるしてきたので、手短に。
平田氏が言う「想像力の幅」の設定方法として、一番分かりやすいのが「間を取る」事だ。「間」があれば、観客は「なんだろう」と思う。しかし、役者は間を取ることを怖れるし、時に「想像力の幅」など考えた事も無い演出家の場合、無知のまま「間を詰める」事で芝居がスムーズに進んだと独り満足げである。そして其れを良しとする観客もいる。これは忌々しき状態ではないだろうか。(早いテンポの芝居が駄目とう意味ではありません。)
私の好きなルネ・マグリットの作品に「これはパイプではない」と題された作品がある。これを初めて観た鑑賞者は、一瞬その絵の前で立ち止まってしまう。何故ならその絵は、表題に反して正にパイプが描かれているように見えるからだ。その絵を見て逡巡してしまうその瞬間、そこにはマグリットが意図したであろう「間」が生まれている。その「間」を嫌って隣の絵に移動する事は簡単だけれど、それでは鑑賞者の想像力は刺激された事にならない。理解不能なものを瞬時に排除する姿勢は、その鑑賞者が持つ「想像力の幅」を閉じたままにしてしまう。勿論これはコンセプチュアル・アートの話であるので、平田氏の言う「想像力の幅」を論じるには少し大仰かもしれない。しかし、作品の受け手にとって想像力と言うのは、やはり頭上に一瞬ハテナが出てから産まれるものなのだ。そして、それは理解への希望でもある。
私が観たその作品には?が殆ど無かった。あったとしても?が!にならなかった。「なんだろう?」が「そうだったのか!」とか「やっぱり!」にならないのだ。全編通して、「うん。わかるよ。」で終わる。人間はそんな単純じゃないし、ついでにセカイはもっと複雑だ。それは90年代以降声を大にして言われている事でもある。だからこそ00年代以降敢えてあのように分かり易過ぎる作品を彼らがやっているのだとしても、その分かり易さの中に、人間やセカイの本質を探究するような野心や熱意、そして核となる主張は見られなかった。そんなもの探求するつもり毛頭無いかもしれない。それならそれでいいのだが、僕はとりあえず、あのように分かり易過ぎる芝居に足を運ぶ苦労をかけたくない。段取り通り想定の範囲内で行なわれる学芸会を観て楽しめるほど、僕は平和呆けしていない。その場で一時的な平和を感じたとしても、そこに希望的希望は無い。何をどうすればいいのかは、それぞれの「想像力」に任せるとして、僕が単純に言いたいのは、想像する力は誰しも持っているのだから、先行き怖れずにそれを駆動すればいいじゃないか、と言う事です。受け手は作品を甘受してはいけないし、作り手はそれに甘えてもいけない。少なくとも、僕はそう思った。そして、少なくとも、作り手は、そう思うだろうと想像します。そして、走り幅跳びは好きですか? (間) と最後不明ですが、以上です。

補足:ヘンに期待していただけに、観劇後何だか哀しかったのもあります。凄くコメディ好きなので。軽重関係無く。だからちょいむきになり過剰に発言しています。