壁の花団/たまごの大きさ

精華小劇場にて「壁の花団/たまごの大きさ」を観る。水沼健作「壁の花団」が2005年OMS戯曲賞を取ったという事で結構期待していた。どういった方法論でアプローチしてくるか、とても興味があったけれど、僕としてはこれといって驚くような方法論は無かった。前回作品「象を使う」のアフタートーク別役実さんが話されていた通りの作風だと思った。受け売りで申し訳ないが、本当にそんな印象。硬派な不条理劇。そして重い。以前の作品と比べたら随分と軽量化されているけれど、依然として作品全体が飛翔しきれていない感がある。重いテーマを扱ったとしても、不条理劇にはどこか遠くへ昇華/消化していくような軽やかさが欲しい。しかしそれがあまり無い印象。これは一つに笑いの質の問題があると思う。小難しいけど笑いが多少鏤められたような芝居をする人(私もです)は、「観客が笑い声を密かに堪えている瞬間がたまらなく好きです」、と軽軽しく発言したりする。しかし一体その人たちは(決して本意で無いとしても)観客を本当に心の底から爆笑させる事が出来るのだろうか。甚だ疑問だ。僕の大好きなナイロンの役者さんがMONOの芝居を観に行って一言「面白く無い」と一蹴した事を思い出す。(こういった事を書く僕の感性/社交性/将来性は如何に!?)それに近い感覚を僕も「たまごの大きさ」に抱いてしまったのかもしれない。つまり笑いが消化されない。残る。むず痒い。そこまで笑わせようともしていない。女が不条理な会話をしている絵が続く。それはそれである種とても気持ちの良い絵、二日酔いな感じ。だけど、人間は何でもすぐ飽きる。全く観客の裏をかかれない。だからといって、一定方向に物語りは進まない。予測できるわけじゃないけれど、裏をかかれることもないって状態。息を飲む圧倒的な美的場面も無い。ファンタジーに逃げた不条理劇という印象。
特に僕は棒読みが気になった。しかし棒読み自体僕も好きなので、色々と考える機会にはなった。棒読みする人物を見ると、観客が何を思うのか。ヴァージン・スーサイドの女の子たちも基本的に棒読みだったような気がする。ただ、あの場合男たちがいたから作品の求心力は保たれた。今は無きエロクトロニカという団体の作品では、圧倒的な速さでセリフは棒読みされた。たまごの大きさでは、5人の女性が終始一定のリズムで棒読みをする。でも棒の芯が見えない。それが意図だったのだろうか。舞台上には棒がたくさん立っていたけど。

端正な味わい。舞台美術も美しい。ファンタジー好きの可愛い女の子にとても受けそうで羨ましい。フェミニズム的視野を入れて考えればもっと面白いだろう。しかしたまごの茹で加減、わからず終幕。オープンエンディング。ただ、個人的には凄く好きなベクトルの芝居です。

ちなみに、「象を使う」のあれやこれやはここで見れます。
http://www.tp-kac.com/KAC_TP_j_zou.html