カレイド終了、その感想〜恥かしい真諦〜

第三回・アート・カレイドスコープ、私としては最後のボランティアが12月16日にあった。フィジカルシンポジウムという名称で、「恥かしい身体とグランドショー」@現代美術センター

出演:黒沢美香(座長踊り)
   砂+C.Snatch Z(挑発的表現労働者)
   ピンク(過呼吸乙女ユニット)
   矢野眞道(ジャズ・ヴォーカリスト

踊り不勉強のため、私は全員未見であった。もしかしたら、砂はダム・タイプで見たことあるかもしれないけれど、「この人がこの人だな」と意識して観たのは全員初めて。
まさに異空間。ジャズ・ヴォーカルの矢野氏が演技している様が素敵だった。踊りは基本的に声を発しない舞台表現。そこに声を武器にしたアーティストが居る。その佇まい。改めて音楽の力を認識。結局、身体の身振りも声も何かを震わせるという点で同じであるから、その辺興味深かった。特に砂のグルーヴ感が良かった。ピンクの踊り、最初ずっと定位置で蝋人形みたいに踊っていたけれど、途中やはり「見せ場」があり、三人が舞う。楽しいなぁと思ってたら、途中三人がアメーバがくっ付くみたいに床をウネウネ交じり合う。これにうねる、いや唸る私。黒沢美香は終始妖艶。最後女性陣が矢野氏を囲み、まさにショーしている場面の黒沢美香が最高に気だるく、私的に一番素敵に見えた。彼女のように鬱屈した身体性・存在は関係性の中で光るものだ、と思った。でもそれは踊りの見方として良いのか悪いのか。そんな基準は絶対にないのだけれど、単純に私はそういった楽しみ方をした。

そういった意味で、武藤大祐氏と桜井圭介氏のコメント対談は本当に面白いし勉強になる。
敢えてここで違う批評家柳澤望氏の言葉をちょっと長いけど引用してみる。

「演劇」とか「ダンス」という言葉が私たちのすることや見ることの範囲を決めているとしたら、そこでは演劇の論理、ダンスの論理が働いている。それらの論理は様々な定義を容認するので、時には「あれはダンスではない」とか、「これこそ演劇だ」といった言い回しを誘い出す。そんな言い方は、私たちの視野をクリアにしてくれる以上に視野を固定し限定してしまう。この呪縛から逃れる方策の一つは、論理を徹底しその働きを明白にする所にある。
http://www.geocities.jp/azabubu/freepaper/yanagisawa.html

私の恩師の言葉で「芸術なんて、結局どこに線引くかだからね」という言葉がある。ふとそれを思い出す。それが良いか悪いかはわからないけれど、やっぱり何かを創造する以上、線引きされたくないって気持ちはどうしようもなく出てくる。ただそういった事に関して、「線引きされないようにするには、どうしようかなぁ」と考えるのは疲れるし、何かがうそ臭くなる。最近私のお気に入りの言葉で締めるならば、「動かない感情」で何かを創ってみたい。ということです。

以上、カレイドスコープボランティア参加終了後の感想でした。

感謝表明。カレイド関係者一同、私のような学生でも無い、怪しげなモノを、お使いいただき有難うございました。本当に色々と勉強になりました。そしてボランティアスタッフの皆様、現代美術センターの皆様、お話出来た方も出来なかった方も、何かもぉ、一緒くたに、全員、有難うございました。それぞれの想い、そして関係性が仮設/仮説で終らん事を願っております。

ヴェルヴェット・アンダーグランドを聴きながら。伊藤拓。