[舞台] 音速漂流歌劇団/デス電所

力。力。力。←片仮名の「カ」じゃないです。チカラとかパワーの「力」です。で、「力」の三連符で僕が独りリキンデイル状態を伝えたいわけじゃなくって、デス電所の勢いが気持ちが良いって事を言いたいのです。いや、もー本当に勢いですよ。デス電〜!!っ所!!(同意を求めるローカルな後輩の口調で、はい)デス電〜〜〜!!っ所!! 

で、気持ちデス電ファンである事をテレ隠しながら書くとすると、個人的に彼らの芝居には「勢い」ベクトルを強く感じます。それは本当に羨ましい。空気感の作り方が絶妙に上手い。世代感覚丸出しですが、いわゆるオモシロクナイ事との距離の取り方が物凄く共感出来るのです。たまにいますよね、空気が読めてない人。オモシロクナイ事と距離を置こうとして、変に努力しちゃう姿勢自体が全然オモシロクナイ人、可哀相な人。そういった可哀相な/可愛そうな人もきっとデス電所の中にはいるかも?しれませんが、トップに自然と立つ人(呑み会で言えば幹事さん?)が場のコントロールをしている限り、その空気がオモシロクナくなる事は決してありません。(凄く回りくどい文章ですね。すみません。嫉妬交じりに書いているからでしょうか。。。)

で、で、で、で!!

唯一、僕がデス電所に対して疑問に想ってることがあります。それは芝居の物語性です。僕としては、物語前半の距離感を保ったまま最終コーナーを駆け抜け、PTAの方々が持つテープをぶっ千切って欲しいのですが、何故か中盤からデス電所は、まるで何かの問題解決をしなければならない義務を負ったかのように、複雑化・多層化した物語のレイヤーに絡まりながらも、持ち前の「力」でもってテープをカッカッカと切りつつ颯爽と捌けて行くのです。つまり幕が降りた時に想うのが、「あんなに面白かった彼らが、あんなに大きなドラマの中にいたなんて!!」って事なのですが、僕が不思議に想うのは、その「面白さ」と「物語性」の深度が全く違う事です。それがきっと意図的であり月9的であり売れ線志向的なのかもしれませんが、僕はその差違が少し引っかかる。でもその引っ掛かりは、デス電所のチラシや竹内佑がプロレス思考であろう事から納得はいくのですが。。。(そういう意味で、OSPF、知らない人は僕の日記でよければ http://d.hatena.ne.jp/taku_ito/20050731参照、で観た竹内佑の一人舞台は凄く良かった。)

0世代の観客論を考えデス電所があぁいった物語性を取っているのであると信じている僕は、やっぱりデス電所、凄ぇ〜〜、となるのです。続きは2時間後。