今を言い切る①

岸田戯曲賞の選評を読む。
http://www.hakusuisha.co.jp/current/kishida_senpyou49.html
成る程。そういう時代か。そういう時代なのか。

何故、今になって岸田戯曲賞の選評なのか。それは、今巷でトヨタコレオグラフィーアワード2005が何かと問題になってるようだからです。僕は舞踊畑でないので、ダンスに関してはよくわかりません。「選評が無い」という問題が浮上してるらしいのですが、そいつぁ面白い指摘だぜ、お偉いさんよ、さぁさ さぁさ、てなもんで大変興味をそそられた訳です。で、演劇界はどうだろうと想い、岸田戯曲賞の選評を改めてじっくり堪能したって話です。

やはり、「これ一位!」「これ優勝!」「君たちこの小屋使いなさい!」てな場合、二位や準優勝や小屋使えない人たちはwhy?ときます。そこには「選評」が必要となってくる。至極当たり前のようですが、案外こういう事ってテキトーにすまされてるのかもしれません。

批評家が存在する意義ってあると想う。絶対にある。
文化的リテラシーの教育/活性化。
その事で、もっと色々なモノ/ヒトが華やぐはず。
華やげ。モノ。ヒト。

ロゴス主義にはなりたくない。

でも、「造る」と「伝える」は、同じ作業ではないのです。
それを履き違えると、情報メディアの腐乱臭が漂うでしょう。

今や、「造る」ことと「見つける」事が同義語であるような気もする時代です。
「造る」に対して「伝わる」ってのは、同じ作業場の話だと想います。

僕は「伝わる」と「伝える」が同居するような空間が好きです。
例えばそれは、長い行列の最後尾にちゃんと並ぶことだったり、野球の応援でビックウェーブを作る事であったり、一生懸命造った作品を一生懸命観賞する事であったり、妊婦さんに席を譲る事であったり、感動して泣いてしまう事だったり。。。

だから、批評家を必要とする時代は不幸かもしれません。
多様化って事も勿論言えますが。
文化って、難しい。