オメデタ論

〜日常的所作〜
そう言えば、昨日は私の最も親しい人の誕生日だった。何を言えるだろう、何を贈れるだろうと、くにゃくにゃ考えていたが、私はあの人に対しては特に恥かしがり気質(テキトー気質とも言えるかもしれない)が出るので、結局何もしていない。嗚呼申し訳ないような、そのままスルーしちゃいたいような。。。
しかし何にせよ、誕生日に関しては昔母が逆ギレ気味に言い放った言葉が私にはとても印象的だ。

「あんたを産んだ私を祝え!」

・・・鋭いとしか言いようがない。
だが、今更ながら私はこの主張に対して頑張って反論してみる。
母なる論理で考えると、機能的に子を産めぬ男性は決して誕生日を祝われる事が無いと考えてもいいだろう。射精の努力など、産みの苦しみに比べたらなんてこたーないのだ。きっとそう思う。
で、誕生日を祝うってのは、とどのつまり、「今日まで頑張った生きてこれたね」的な意味あいになってくるんじゃないだろうか。何を痒い事言ってるんだ、とか言って私を歓楽街に置去りにしないで欲しい。(歓楽街?)これは、とっても大切な事だ。
誕生日を祝われない悲しみってのは、今まで生きてきた「生」を肯定してくれる人がいないって事による悲しみだ。「おめでとう〜」という言葉は、あまりに慣習化されており、社交辞令的不快感を「祝われる者」に与えるかもしれない。しかし、この「おめでとう〜」に何故か人は「過去の生の肯定」を感じ取る。何かわかんないけど感じ取っちゃう。人はだから愛しい。
あぅぃ〜、言いたい。つ伝えたい。「おめでとう」と伝えたい。一日遅れだから社交辞令度は鰻昇り。でも言いたい。つ伝えたい。手段を探ろう。

電話。
手紙。
電報。
大声。
Eメール。
飛行機雲。
打上花火。
TV深夜枠。
風の便り。
虫の知らせ。
神のお告げ。
世界の車窓から
徹子の部屋から。

・・・私としては、大声をお勧めする。

て、ことで、「おめでとう(大声)」