つげ義春と「オチ」

taku_ito2005-06-09


未熟な私が評するに、つげ義春の作品は「オチ」が絶妙である。ここで終ってしまうのか、、、といった。
尾崎方哉の自由律俳句(何事も上手い事言うものである。)の世界に似たものを感じる。ただ、つげ義春の「オチ」の方が深く考え込ませる不思議な力がある。つまり不条理感が強いのである。それは、つげ義春が一行で物語を語らないと言う点。つまり、尾崎放哉の不条理感は詩を自由律にしてしまった時点でそのフォーマットが不条理であるが故、読後感として、「(笑)だからぁ??」となるのである。
それに比して、つげ義春のフォーマットは普通であるがために、「何故そこで終るの?」と考えさせられるのである。読者は再考に再考を重ね何らかの悟りを開く事になる。例えば「沼」という作品を読んでみて欲しい。(*劇画の自己表現の出発点となった作品と言われる)

ここで尾崎放哉の作品解説等はしない。私が尊敬して病まぬ宮沢章夫氏が彼の俳句世界を論しているエッセイがあるので探してみて欲しい。
参考にウェブサイトだけ。

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person195.html
無料ダウンロードしてみよう。尾崎放哉の詩。

http://www2.biglobe.ne.jp/~endoy/index02.html
尾崎を特集しているウェブは多々あるが、私が気に入っているページ。墨絵によるイラストが何とも言えない。

マンガの日日を記すつもりが、不条理マンガVS自由律俳句な様相。。。

フォーマットという点に関し、マンガ評論家である夏目房之介は、線とコマに軸を置いたマンガ論を展開する。マンガ音痴な私なぞ、眼からうろこである。

90年代後半に入り、つげ義春の世界観はマンガフォーマットから映画フォーマットで表現される機会を持った。漫画→映画の流れは21世紀において、ますます藝術産業化されるだろう。それが良いか悪いかは、微妙なところですが。とりあえず以上。

注:私は決して放哉の俳句を稚拙な作品だとは思っていない。ここで私が挙げた不条理感の違いは、一般大衆的、即物的反応としての比較である。勿論放哉の俳句を熟考して何か覚醒される場合だって十分考えられるのである。ただ、彼の世界観は一行で片付けられているからこその深みがあるというもの。ま、参考に一句だけ挙げておく。

「色鉛筆の青い色をひっそりけづって居る」

・・・凄い。。。