あと5日で私が点在します。

▼公演まぢかです。どうぞ、新しいリアルを感じに来て下さい。チケット購入して、どうぞ、来て下さい。口コミが広がる間も無いぐらいすぐに終わっちゃう公演です。4回しかしません。沢山の人に見て貰えれば、俳優も制作もみんな喜びます。よろしくお願いします。
さて、ラブ安吾、チラシに引用した文章です。いやー、実にいいこと書いてるなぁ。坂口安吾著「私は誰?」より引用です。

人生は短し、芸術は長し、それは勝手だ。然し、すくなくとも、芸術家自体にとっては、芸術の長さと人生の長さが同じことは当りまえではないか。人生だけだ。芸術は、生きることのシノニムだ。私が死ねば、私は終る。私の芸術が残ったって、そんなことは、私は知らぬ。第一、気持が悪いよ。私が死んでも、私の名前が残ったり、伝記を書かれて、こき下されたり、ほめられたり、でも、マア、私のために、もし何人かゞ、原稿料の種になって女房を養ったり、酒をのんだりするのだとすると、あゝ、その何割かを生きている私がせしめてやれぬのが残念。私は私の芸術が残るだの、死後に読まれるだのと、そんな期待は持っていない。/私は突き放している。どうにでもなれ、と。私は行う。私は言い訳はしない。行うところが、私なのだ。私は私を知らないから、私は行う。そして、あゝ、そうか、そういう私であったか、と。/私は書く、あゝ、そういう私であったか、と。然し、私は私を発見するために書いているのではない。私は編輯者が喜ぶような面白い小説を書いてやろう、と思うときもある。何でも、いゝや、たゞ、書いてやれ、当ってくだけろ、というときもある。そのとき、そのとき、でたらめ、色々のことを考える。然し、考えることゝ、書くことゝは違う。書くことは、それ自体が生活だ。アンリ・ベイル先生は「読み、書き、愛せり」とあるが、私は「書き、愛せり」読むのも、考えるのも、書くことの周囲だ。うっかりすると、愛せり、というのも、当にならない。私はそんなに愛したろうか、確信的に。私が、ともかく、ひたむきに、やったことは、書いたことだけだろう。/私は然し、みんな、書きすてゝきた。ほんとに書きすてた、のだ。けれども、ともかく、書いたとき、書くことが生活であった。このことは疑えない。/女に惚れたとき、酒をのむとき、私は舌をだすことも出来た。横をむくこともできた。私は金が欲しくて小説を書いた。私には分らない。私は断定することができないけれども、私自身は影のように、つかまえるところもなく、私の恋も、のんだくれの夜も、私は私の影のような気がする。/「書けり」というのが、たった一つ生活であったような気がするのは、それが決して快楽ではなく、むしろ苦痛であるに拘らず、そのために、他を犠牲にして、悔いないからであろうか。そういう、差引、損得勘定ではないだろう。/やっぱり書くことが面白く、そしてそれが快楽であるのかも分らない。然し、快楽というものは不安なものだが、そして常に人を裏切るものであるが、(なぜなら快楽ほど人に空想せられるものはないから)私は書くことに裏切られたとは思われぬ。私は力が足らなかった。書き得なかった。そういう不安がないこともない。然し、書いた。書くことによって、書かれたものが実在し、書かないものは実在しなかった。その区別だけは、そして、その区別に私の生活が実在していたのではなかったのか。/私は然し、生きているから、書くだけで、私は、とにかく、生きており、生きつゞけるつもりでいるのだ。私は私の書きすてた小説、つまり、過去の小説は、もう、どうでも、よかった。書いてしまえば、もう、用はない。私はそれも突き放す。勝手に世の中へでゝ、勝手にモミクチャになるがいゝや。俺はもう知らないのだから、と。/私はいつも「これから」の中に生きている。これから、何かをしよう、これから、何か、納得、私は何かに納得されたいのだろうか。然し、ともかく「これから」という期待の中に、いつも、私の命が賭けられている。/なぜ私は書かねばならぬのか。私は知らない。色々の理由が、みんな真実のようでもあり、みんな嘘のようでもある。知識も、自由も、ひどく不安だ。みんな影のような。私の中に私自身の「実在」的な安定は感じられない。/そして私は、私を肯定することが全部で、そして、それは、つまり自分を突き放すことゝ全く同じ意味である。