アキレスと亀を観た

▼画家がずっと画家をして/させられていって、もう「画家の念」に囲まれちゃって大変って映画なんだけれども、これは今の時期に観て良かったと想った。コンペ前、という言葉を使ってみるが、今私はコンペ前の状態であり、ということは否が応でも、あーコンペコンペはいはい、という意識にはなってしまうのであるが、コンペから遠ざかろうとすればするほど、それはコンペに囲われているような気もしないではないし、だからといって距離をぐいぐい縮めて毎朝京都に向かって深くお辞儀しても、何にも始まらない。って問題がある。ってこれ全然問題ではない。

▼あまりに絵が売れないのでまちす(漢字はググれ)は、金が無い。そこで自分の娘が売春やってるのを知っているにもかかわらず、その娘と会って「絵の具買うから、金貸してくれ」と言う。そんな素敵な台詞がある。もし私が演劇を続けて金が無くなり(今も無いか)、それでも演劇がしたくて自分の娘(同じように売春をしているとして)に「稽古場借りるから、金貸してくれ」と言えるだろうか。画家にとっての絵の具と、演出家にとっての稽古場ってのは、このように比較してみると、全然違うということがわかる。絵の具は俳優で、キャンバスは劇場と考えてみよう。そうすれば私は、売春してる娘(がいたとして)に対して、「新人募集するから、金貸してくれ」と言えるか。言えるかそんなもん!これも全然言えないに決まっている。劇場借りるからも、弁当代足りないからも、舞台監督に発注かけるからも、なんか全然言えない気がする。

▼しかし、真知寿(ググった)がその娘(死んでいる)の顔に口紅塗って顔全体にも口紅塗って、魚拓とるみたいに赤顔拓を取るシーンは、僕はとても共感出来てしまった。そこで妻は、「人間じゃない」と真知寿に叫ぶのだが、芸術家は人間に非ず、なのか。大竹まこと扮する屋台の親父が「飢えたアフリカ人の前に、ゆでた芋とピカソの絵を置いてみろ」(うろ覚え)とか言うんだけれど、この疑問に対して嘘でもいいからある程度の答えを用意しておかないと、のちのち大変な事になる。いろいろな方面で、本当にのちのち大変な事になるのだ。この事実を知ってるか知らないかは、かなり大きいと思います。(この映画の本筋的な大変な事を意味してないので、あしからず。)

追記
映画自体の評価は省きますが、監督の自意識の「照れ」を表現しちゃうパワーは、不思議とうらやましいです。