戯曲を書いている

▼執筆中である。「家族っぽい時間」、そろそろ仮チラシも出回ることだと思います。今週の青年団から挟み込んであるはず。よろしくお願いします。

▼家族の事ばかり考える。うちの家族の事もしかり。また、現代社会における家族の意味など。家族の肖像とか、トーキョーソナタとか、家族を考える作品が話題をさらっている2008年度後半戦ですが、そこに一矢報いることが出来ればと思ってます。家族ゲーム、最後の家族、快復する家族、宇宙家族ロビンソン、そして家族っぽい時間。僕としては、この「っぽい」の部分が大事だと思っている。「ぽさ」をテーマに2008年度後半は頑張ってみようと思う。この「ぽさ」の蓑に隠れちゃって、奥行きをみんな嫌っているんじゃないか。「ぽけりゃーいい」みたいな事になってるんじゃないか、と一人懸念。結婚も「ぽさ」を求めてする人が多いんじゃないかと思うし、東京に夢を抱く人も結局は「ぽさ」を求めちゃってるからだと思う。「ぽさ」程危ういものはないんじゃないか、とも思うのだ。演劇である程度の「ぽさ」を表現する事はとても簡単で、それはどんなジャンルでも「ぽさ」なんてものは、すぐに出せると思う。真似すればいいだけなので。しかし、演劇の場合「ぽさ」を1時間半はじーっと見られるわけで、それだけ凝視されちゃうと「ぽさ」鍍金はがんがん剥がれていくことだろう。じーっと見続けても剥がれない「ぽさ」が欲しい。時間芸術だからこそだ。映画しかり。しかし、演劇と映画の決定的な違いは、停止ボタンが無いって事か。巻き戻し、早送り、停止が効かない演劇。ボタン一つで止まらないのが演劇である。パッケージング出来ない=リモコン操作が効かない、である。これは、利点だ。変なたとえだが、リモコンより、木べらを私は愛したい。

▼戯曲は巻き戻しも早送りも停止も効く。その分熟考しなければならない。上述したトーキョーソナタの場合、脚本家として三名の名前がクレジットされている。(まだ僕は未見。)映画のこういったシステムをどうして演劇は導入しないのか。劇作家、演出家の独裁はまだまだ続くだろう。この事に対してとても正直に?面白い見解を示しているのが、チェルフィッチュ岡田さんの「フリータイム」WEB版である。ちくまWEBで読める。これがめちゃくちゃ面白い。こういったものを読んじゃうと、通常の戯曲創作法に疑問を持ってしまうのは当然である。ん〜、面白い。

▼だから、結局物語る方法、といったものを考えないといけない。僕はたぶん「物語」自体で作品を進めていくタイプじゃない。whatよりもhowに興味がある。結果的にhowを考えることで、whatの部分は変わると思っている。whatから考えても、堂々巡りで、新しいwhatなんて、たぶんもう無い。howを表現、whatを物語に置き換えてもいい。最近「神童」を読んだが、これ読んで「あ〜、音楽は素晴らしいなぁ、音楽って心を豊かにするなぁ」とかそんなことで感動する人は、駄目なのだ。とあるサイトで読んだが、さそうあきらがこの作品で手塚なんちゃら賞を取ったとき、こんな受賞の言葉を残しているらしい。「大好きな音楽を音で表現するのではなく、絵だけで表現するのではなく、エピソードとして表現していく漫画を目指しました」。ここで言われているエピソードとは、whatに近いと思われるかもしれないけど、僕はこれはhowの絡まり方だと思う。実際漫画読んでもそう感じた。だから、どのジャンルを見ても、howが新しい何かを生んでいるのは誰の目にも明らか。それは、つまり、作者のセカイの見方である。言い分じゃない。作者の見方。だから、僕は家族っぽい時間に関して、どういう見方を提示出来るのか。言いたいことなんて、ほとんど無い。howしかない。howから始まるwhatしかない。(と書きながら、抽象的な事ばかりで、核心が無い話だな、と気づいた。ん〜。howに逃げても駄目で、ある程度のwhatをhowするか、みたいな話なんだけれどなぁ。。。whatで驚かされるのは、現象で珍百景的なものがそれの代表だ。たとえば、はてブで話題の竹田城は僕も驚いきました。あ、ポニョは、何度も言いますが、面白かったです。)