柔らかいソファーで腰痛になりそうになる

▼少しずつ着実に手をつけていこう。上手いサイクルを発見出来れば良い。

▼人と付き合うのと仕事と付き合うのと。どちらが難しいと言ったら、断然前者だ。年齢も30に近付くと、人と深く付き合うとは、その人を自分の人生に深く「引きずり込む」に近い意味を持つ。その際、こいつなら引きずり込んだって大丈夫だろうって人と、こいつは引きずり込んではいけないぞって人に分かれる。ある意味それは、その人が愚か者かどうかって事でもある。愚か者なら、いくら引きずりこんでも、「あはは、いいっすよ〜」で終わる(と信じさせる何かがある)。しかし、愚か者は残念ながら仕事がちっともできなかったりする。一方、愚かでない人は、引きずられる状態も確認できるし、その結果何がどうなっていくかも判断できる。客観性の有無は、非常に重要だ。

▼客観的になればなるほど辛くなる、それがアーティストのサガかもしれない。客観的になればなるほど、作品やジャンルの社会的位置付けを普通に嘆くだろう(特に演劇は)。この「普通」ってのがミソで、この「普通」って考え方が、どんどん人をダメにする。作り手にとって見えない地雷みたいなもんだ。そんな「普通」はくそっくらえ、と思うのは私だけだろうか。まぁいずれにせよ、人は主観と客観のバランスを絶妙に保ちながら、日々を楽しく生きようとする。しかし、アーティストは、主観を鍛える事で、何とか生き永らえたいと考える。徹底的に客観になって生きようとするアーティストもいるかもしれないけれど、それは永続きしないだろう。その辺の事をしりあがり寿著「マンガ入門」はとても簡単な例で示していて、驚いた。少し長いが引用する。

自分の中に、「しりあがり寿」という作家と「しりあがり寿」を担当しているマネージャーがいます。作家である「しりあがり寿」は、いつどこでどんなことを考え出すかわからない、ヘンテコな「ケダモノ」であり、それを担当するマネージャーは、そんなヤヤコシイ「ケダモノ」を担当する「調教師」、あるいは飼いならす「オリ」といったところでしょうか。
 この二つは両方とも必要ですが、どちらが大切か、と問われれば、ボクは迷いなく「ケダモノ」と答えます。ケダモノにパワーがあれば、自分の中に調教師がいなくても、周りの人に面倒をみてもらって成功することが可能です。でも、ケダモノを持たない調教師は、どうしようもありません。だって観客に見せるものがないのだもの。 (しりあがり寿/マンガ入門 p.27-28)

▼上記引用箇所を読みながら、集団主宰としての自分の姿と、劇作家・演出家を名乗る自分の姿を比較している自分に気付く。実にいろんな事を考える。いや、決して徹底的にケダモノになるぞって話じゃないです。自分も大事ですが、自分の集団も同じように大事ですから。ま、そんなに多く語れるほど、まだ人生経験積んで無いので、何とも言えませんが。何れにせよ、マンガ入門の序章は、激しくお勧めです。明快な言葉で、表現者である事について語ってくれています。個人的にはこれと「なんでもポン太」の併読なんか、かなり勉強になるんじゃないかと。

マンガ入門 (講談社現代新書)

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なんでもポン太 (QJクンズー漫画 (02))

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