ソウル市民を観て

▼どうかっていうぐらい面白い、と書いた宮沢氏の言葉が思い出されるくらい、どうかっていうぐらい面白かった。ソウル市民。

▼自分の持っている言葉、動き、センス、技術などを記述して、数冊のノートにするような、そういった行為を今僕はしないといけないんじゃないだろうか。とふと思う。引き継ぎをすると、自分の方法論は何となくまとまるんだけど、全てを引き継ぐことはまだしたくない。だから、多くのWSが必要なんだろう。参加者にも講師側にも。今日、ソウル市民1919を見ていた僕の席の隣が、確か某エンタメ系演劇人だったと思うが、彼が始終クネクネしている姿に僕は憤慨しそうだった。あ、これ関係ないか。ま、でもとりえあえず。彼はクネクネするし、ジュースは飲むし、困った人だった。で、一番困ったおもしろかったのが、観劇中逐一ノートを取っていたこと。内心関心した。僕も10代の頃よくやった。でも、何が一番笑ったって、彼がギャグのシーンと思しき場所で、よくノートを取っていたように感じられたこと。僕の偏見かもしれないけれど、ちょっとギャグのシーン(と思しき場所)があると、ささっとノートに何か書いていた(ように想う)。別に彼と仲悪くなりたいわけじゃないし、色々と演劇の話(特にコメディの話)をしたいと思うんだけれどなぁ。声かければよかった。「おい、ジュース飲むな」とか「おい、ノート見せろ」とか。

▼「良い作品が上演される前の、あの静まりかえった空気」は、荒れた家庭環境に持っていってやりたいくらい、いいものだと想う。あの空気が缶詰で売っていたら、結構売れるんじゃないか。その「良い作品が上演される前の、あの静まりかえった空気」が入った缶詰を開ける前に、全く同じように静まりかえった空気が産まれ、といった良循環。

▼中心と周縁の概念は、物語批評にとっては当然な言葉であるが、ちょっと古めかしい感じもする。ま、でもいいや。ジャズ理論では、中心を作るから周縁が出来る、だから中心を定めないでおこう、といった考え方もあった。中心を中心として描く方法は、過去のステレオタイプなパターンで、享楽的過ぎるきらがある。周縁を描き、中心に導く方法は、頭脳パズルみたいで楽しい。この辺の話をセックスに置き換えて考えれば、オルガスムスに達するのが中心で、前戯が周縁になるだろう。前戯の重要性は、女性誌男性誌、到る所に書いてある。では、演劇における前戯をどう定義するのか。何も描かれてないように見える作品は、オルガスムスを無視っているのか。はてさて、オルガスムスが良いことなのかどうなのか。「近くにいるだけでいいのぉ」という哀しい男女が居るのと同じように、「舞台上に居るだけでいいのぉ」という素敵なお客さんは、残念ながらほとんどいない。だから様々な仕掛けが舞台上には張り巡らされる。その仕掛けに気付くには、時間かかるものもあれば、そうでないものもある。空間と時間で徹底的に遊べるのが、演劇の特徴であるとした場合、空間や時間の距離のとり方、その絶対値は、大きければ大きいほど、チャレンジングなことだと想う。達した事が果敢ではなく、達しようと試みた事が果敢なのだ。ま、達しなければ意味がないのかもしれないけれど、どう考えてもカクシン犯。