舞台[矢内原美邦プロジェクトvol.1『3年2組』]

DVDだが、なかなか面白く見た。ぶっ続けで演劇作品を見たのは久しぶり。モローラ以来かもしれない。で、想像していたのとは少し違っていた。人間、いつでも神聖視するなって思った。その自分の心理がまた面白い。観たあと、すぐにユリイカ2005年7月号を取り出し改めて読んだ。桜井圭介氏の小論がやはり分かりやすく示唆的。二つだけ引用します。

『若くて志のある演劇人が共有するであろう問題意識、それは乱暴に言ってしまえば、九十年代のいわゆる「静かな演劇」を経た今、「いかにリアルな身体を舞台に出現させるか」(物語レベルのリアルや演技におけるリアルではなく、舞台というフィクショナルな空間に立つ身体のリアル)ということだ』

『フツーの演劇、とりわけ「台詞劇」と呼ばれるようなそれ(シチュエーションとして劇的な動作を必要としない劇)において「身体」とは言うまでもなく、発話する「声」である。』

前者の問題に関して、僕は別に物語レベルでも演技レベルでもリアル追求は可能だし為されるべきだ、喩えそれが最終的に舞台上でのリアルに焦点が絞られるとしても、って思ったりもするのだが、後者に関しては大賛成。

矢内原美邦プロジェクトvol.1において、声の問題はかなり大きなウェイトを占めていた。勿論、走りまくる身体も重要だとは思うが、走りまくった後に発せられる台詞回し、桜井氏はそれを「ぜーぜー」と形容しているが、演劇でダンシーを求めた時に声は見過ごせない大きなアイテムになるんだ、と僕は再確認した。僕自身も吐息とか内緒話をする際の声の音量とか喘ぎ声とか意味無く大声で話す瞬間とか、そういう声絡みの演出は何度かしてきたつもりだけれど、あそこまで意図的に、作品全編に渡って声の演出をつけたことが無い。もしかしたら、いわゆるキャラ付けする際に、通常使用している声とは全く違う音域で話させる事も声の身体性を弄っている事になるかもしれないけれど。。。

(ちなみに、ランナーズハイ的なその走り回りは、DVDではそこまで体感できなくって、声の収録が異常に小さい音量になっているせいもあったりして、観ていた時点では、もっと走れるだろ、とか思ってしまった。。。)

いずれにせよ、演劇人っぽい声の使用だけでは、なかなかリアルを感じられなくなっているのが21世紀なのかもしれない。あの「演劇人っぽい発声法」は、内野儀さんが言うところの「ガジェット志向」でしかない、そんな時代なのだろう。あの発声法/発話法がもし「リアル志向」であると真剣に考えた時、何らかのフレームを物語レベルでも演技レベルでも作ってあげないと、お客さんは時代錯誤な作品を観ることになる。その時代錯誤感は、きっと学芸会を見るような心温まる場合もあるだろうが、それは完全に身内レベルの話であって、作り手が用意するフレームとお客のフレームとは、完全に一致するか、はたまた強引にはみ出したほうが良いはずだ。そのような声の身体性にまるで気づいていない演劇作品に接した時、どのレベルでもフレーム構築(または脱構築)が明確に行なわれないと、しごく退屈な気分になる。そんな事を観ていて考えた。

『3年2組』の物語性は、僕は一度ではちゃんと受け取れなかったけれど、若者のリアル、といった印象は受けた。しかし、何れにせよ、衝撃の問題作ってのは、ある程度そうなんだろうなぁ。何と無く、僕の大好きな映画監督/脚本家、ハーモニー・コリンの世界観に近いものを感じた。尚更、色々羨ましい。