咆哮マーチご来場の皆様へ

▼とある質問があったので、僕はそれに返答した。咆哮マーチご来場の皆様へ、その内容をお伝えしたい。僕は以下のように答えました。

『今回、大学時代の作品を改訂・再演すると言うこともあり、何かと微妙で心恥ずかしいような、どこか腹立たしいような気持ちになりながら、咆哮マーチを作りました。何が恥ずかしいのか、何が腹立たしいのかは会場にて各自確認して欲しいのですが(偉そうですみません)。

しかし僕が改めて思うのは、これは全く僕だけのモノじゃないのだなぁということです。咆哮マーチ製作に関わった作り手は勿論、受け手側のお客様(想定内/外)とも意識下で手を取り合って、どでかい粘土をこねくり回して仕上がったような。一人勝手にそんな所感です。

だって、宇宙演劇ですから。』

と。

▼これを大幅に今から書き換えます。意識の流れ小説風に。

『今回、大学時代の作品を改訂・再演すると言うこともあり、何かと微妙で心恥ずかしいような、どこか腹立たしいような気持ちになりながら、咆哮マーチを作りました。《てな言い訳は通用しませんでしょうか?》 何が恥ずかしいのか、何が腹立たしいのかは会場にて各自確認して欲しいのですが(偉そうですみません)。《でも一応宣伝の意味も込めてこう言っているに過ぎないのだから、別にそこまで偉そうじゃありませんよね》。

しかし僕が改めて思うのは、これは全く僕だけのモノじゃないのだなぁということです《つまり、言辞を弄すれば、僕の作風が定まっていないと言う事です。これもまた言い分けじみていてすごく嫌ですが、時間的余剰としての演劇創作を狙った故、それはつまり再演を何故今行うのか、しかもたかだか3年ぐらい前の作品だぞ、3ヶ月に一本ペースだとやっぱり過労じゃないのか?と言う根も葉もない内的世論の重圧が苦しい。僕は何を言っているのだろう。。。》。咆哮マーチ製作に関わった作り手は勿論、受け手側のお客様(想定内/外)とも意識下で手を取り合って、どでかい粘土をこねくり回して仕上がったような。一人勝手にそんな所感です。《お客様に受けの良いモノを作ろうとする事は一体偽善か独善かどっちでしょう。お客様とアーティストとしての自己を対峙させた時に、全く持って今何を語っても、『一般大衆的な受け手に何も通じる事など無いのではなかろうか』という悲観的な考え方が生まれてしまいます。これは二重の意味で悲観的だと思います。まずは、自分の逃げ腰。煮込み料理が出来ない、ただただ焼き飯しか出来ない料理人のようなアーティスト。煮込み料理と炒め物の間に、即興性という言葉が介入する余地など無く、それは全く別の話。私が言いたいのは、じっくりと考えて考えて、何らかの手法を選択したとき、フランスパンという集団全体で考えると、お客さんにわかりやすい一貫性、つまり多様で多作なピカソで喩えれば今は「青の時代」、今は「キュビズム」、といったカテゴリー/明瞭な線引きが必要じゃないだろうか、と言う老婆心。そんな悲観的な内省があります。そしてもう一つは、実験的な公演を打った際の受けと本公演を打った際の反応の差違。それを無くさなければ、僕らが三形態(本公演・横公演・裸公演)形式で演劇をやっていく意味が無い。客のフェーズを変えながら、僕らのスタイルも変化していくのじゃ意味が無い。今こそ、演劇的知の共有を行なわないと、ってか、そんな偉そうな事言う前に、一生懸命芝居作ればいいんじゃないだろうか、と言う悲観的現実的要求。いずれにせよ、僕が大なり小なり、自分を尊ぶ気持ちを持ちながら、今ある切り口を提供していかないと、なかなか辛いぞ伊藤君。有耶無耶にする前に、誇大妄想でもいいから、「誰かには通じる」と思う事。それは前向きな諦念。塊としてのアートが、受け手まで飛んでかないんじゃないだろうか、と言う懸念を振り払うために必要な広大な視野を持つための遊戯性。)

だって、宇宙演劇ですから。(とまとめることの幼児性。老いも若きも悩める羊。誰か僕の毛を刈ってくれ。)』

何か開眼した。