記憶を食う

▼僕は3回入院した事がある。虫垂炎で死にかけた事もある。あの時居た看護婦さんのニックネームは何故か「バクちゃん」だった。で、僕は大好きだったように思う。別に彼女が爆乳だったとかそういう訳じゃない。僕の記憶が正しければ、彼女の寝顔が素敵だったから、その素敵な無垢な寝顔が、まるで他人の夢を食って生きる獏のようだったから。。。と妄想かもしれん。が、とにかく「バクちゃん」だった事に間違いは無い。バクちゃんったらバクちゃんなのだよ。会いたいけど、もう年だろうな。

▼で、僕は何でこんな事を思い出したかと言うと、最近忙しのに貧困だ、ってことで諸諸観劇出来てなく、兵庫県立でやっていたルパージュも梅田芸術でやっていた維新派も意図的に見逃している/しまっていて、しかしその未見の作品を、知人のブログを読むことで、あたかも観たように錯覚しているからなのだ。この状態は脳に良いのか悪いのか。きっとアハ体験的に悪いだろうが、その分他のモノで埋め合わせしようとしている。彼女のデートをほっぽらかしても「埋め合わせしよう」と思わないのに、何かアート作品を見逃すと「埋め合わせしよう」としてしまう。例えば私はスタートレックシリーズを一作も観ていないので、その「埋め合わせ」としてペプシマンのボトルキャップを集めた時期があった。これ正直に言えば、全く何も埋め合わさっていないのだが、自分の中ではかなりの埋め合わせをしたことになっている。きっとこの埋め合わせは、なるべく他ジャンル、少し違う畑のものでやると良いと思う。今考えついた事を書いてるだけだが、きっとそうなのだ。比較的遠距離の方が燃えるってそういう事なのだろう。きっと。

▼360度の環があったとする。でも全然角度違う人同士でも、その絶対値が似通ってれば話し合い理解しあう事は可能だ。漆塗りの職人とノイズアーティストで、どういう方法で互いの絶対値を計ればよいか分からないけれど、きっと近似値はある。最近辺見庸の「不安の世紀から」を文庫で読んでいて、何故今更これ読むんだ俺はとか思いながらも、逆に今だからこそあの時の事件について考えないといけないのではないのか。と思ったりもした。しかし辺見氏の言説は、自分の脳を整理される気分がして大変心地良い。

▼今アマゾンで辺見庸「不安の世紀から」を見てみたら、コメントついており、しかもタイトルが「記憶する者と記憶を殺す者」だ。すごいコインシデンス。しかも、このレビュアーの名前が、imagine4earth。ほほぉ。面白い符号の一致。ちなみに、その人のレビューした一覧見るとhttp://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A1KEYTWDXEAJBA//ref=cm_cr_auth/250-4491534-9389040 コミュサイトにしても、ちゃんとこうして感じた想いが残る状態の方が随分人柄を想像しやすい。はてなの社長は、採用試験の時に、その人のブログを読みまくるそうだ。確かに僕も読破したいブログが何点かある。

▼で、結局僕の言いたことは、最近は知人のブログ(目の嗅覚等)を読み記憶の触覚を刺激しているって事。