ふと

▼ふと気付いた。前作の『Re:ビョーキ』の打上で、私は「次回作のテーマは超バカです」と言っていた事にふと気付いた。今の状態、超馬鹿ではない。と言うか、超馬鹿とは何だろう。果たして今、何が馬鹿イメージを喚起し得るのか。真剣さが伴ったものには、どこか馬鹿の匂いがする。自論では無い。真剣に馬鹿をしなくちゃだめだ。持論だ。それは昔、赤塚不二夫タモリが身体を張って示してくれた事ではなかったのか? 真剣に馬鹿がやりたくて、男の役者に相手役(男)の乳首を舐めろ、とか言って見る。真顔で真剣に言って見る。その姿を想像しただけで自分で笑ってしまう。いけない。
▼ナンセンスと重厚な芝居とを比較して考えてみる。ナンセンスで静かで重厚な演劇は可能だろうか?そもそも不条理とナンセンスは違う。「ゴドーを待ちながら」と言う超ベタを出すが、これがウラジミールとエストラゴン、二人待つのでなく、ゴドーを逆に待たせているという構図ならどうだろうか。こんな浅はかな思考、今まで色んな人の頭を過っては消えたかもしれないが、テレを隠して堂々と書いてみる。『ゴドーを待たせながら』 どうだ。一気にナンセンスでしかも不条理だ。私にはそう思える。待たせてるくせに、二人は延延と他愛も無い(と映る)会話を続ける。観客はゴドーに感情移入してしまうかもしれない。あんなにずっとゴドーを待たせておいて、あの二人何なの!? そういう考え方があってもいいし、そういう芝居があってもいい。僕は何を言っているのだろうか。
▼こんな風に考えてくると、次回作「咆哮マーチ」にナンセンスな箇所は無いし、不条理な場面も無い、と気付く。ナンセンスへの憧憬を孕んだセリフ回し程度のレベルはあるだろう。しかしこれは参ったぞ。どうしよう。と一瞬血迷ってから考える。戯曲レベルでのナンセンスや不条理の無さを演出レベルで彫塑し作り出す事は出来るのだろうか。そして、これは出来るはずだと言いたい。寧ろ出来て当たり前であると。好劇家なら、演出力が其処まで及び得ることを十分過ぎるほど知っているのだ。
▼と言う事を考えてから、今日の稽古に望んだ。消費されるだけの物語にしたくは無い。どこかでヒッカカリを作りたいのだ。舞台上から観客席に放たれる釣り糸。針はピッカピカ。唖然とし開口する観客。さぁ、何人釣れるだろう。舞台上と観客席の狭間に釣り上げられてぶらぶら揺れるお客さん。何人揺れてるだろう。数えてみる。1,2,3・・・そんな妄想をした。明日も稽古。