演出をするという事−−camp.06「アメリカ」を観て

演出をするという事

現在の演劇界では、当たり前のように「作・演出」という言葉が使用されているが、20世紀を「演出家の時代」と捉えるならば、この「作・演出」という冠が何だかとてつもない威光を放っているように感じられる。作もするし演出もする。捉えようによっては、独裁丸出しの格好であるが、だからこそ脚本を書く力、そして演出をする力とを分けて考える必要性がでてくる。
 何故こんな事を考えているのかと言うと、先日うちの本條が客演していたcamp.06「アメリカ」を観に行った時に、改めて「演出とは何か」を考えてみる必要性があるなぁと思ったからだ。
 いきなり私見を述べるならば、所謂エンタメ系の演劇に「作・演出」をこなす方が多い印象がある。自分独自の独特な世界観を出したいが故に、作もする!演出もする!という(欲張り/縄張り)兄さん/姉さんが現れるのだ。(こんな事書いてる私もその中の一人です。)しかし、その独自の世界観創作のポイントを「作」だけに置いている、もっと言えば「作」を終了した時点で世界観の創作をし終えたと勘違いしてしまっている、とは言い過ぎたが、脚本を書き終えた段階で「演出」への創作意欲が激減してしまっている演劇作品が存在していると思う。もっと俗っぽい言い方をすると、これはつまり、「台本を舞台上に乗せるだけで、作品が上演されたと思ってしまう」演劇作品の事だ。そして私がcamp.06「アメリカ」の上演に対して抱いた印象はまさにそれだった。
 誤解の無いように先に言っておくと、camp.06「アメリカ」において演出が全く見えなかった訳ではない。ただ、私の個人的な要望として、さらには素晴らしい脚本への嫉妬心も相まって、単純に私のあの作品に対する「演出」への期待が高まってしまったのである。
 私が一番気になったことは二点、役者の動線と役者が持っている感情の持続力である。
まずは動線について。一定の場所から一定の場所への移動、さらにはそのミザンスが完全なきっかけ芝居に見えてしまった。それはもしかしたら私が全通しを事前に一度見ているからそう思うのかもしれないが、しかし明らかにあの場所の決め方、動き方は緩い。役者の動線・動き方一つで様々な事を騙り得るのだが、あの作品ではそういったアプローチがあまり見えなかった。さらにはそのような注意に欠けているために、セリフのやり取りで作られた空気が動線によって壊されてしまうようなシーンも数箇所見られた。二点目、役者の感情の持続力について。基本的に普通の人の感情は突発的ではない。色々とあーだこーだポストモダン的に考えれば突発的な感情表現は、脱構築的で面白い方法ではあるだろう(例えば身体性において桜井圭介氏が提唱しているコドモ身体など)。しかし、何かを物語ろうとする人の感情表現、そして関係性によって見出されるその人の内面性の表出など、胡散臭く言ってしまえばフロイト的に解釈が可能(であるような)人物を演じる上で、感情とは決して突発的であってはならない。しかし、「アメリカ」に出ていた役者の感情表現は、突発的とまでは言わないまでも、その感情を内面に貯めておくような持続力に欠けていた。「アメリカ」ではある種極めてステレオタイプに描かれたワカモノが登場するので、持続力など持たぬほうが今風にリアルで笑えるのかもしれない。しかし、あの作品における関係性は複雑(単純故に複雑と言っても良いだろう)に絡み合っているので、表層的に演じれば演じるほど、口に出されるセリフは観客の頭を素通りする。セリフが只の言葉としてのインパクトしか持ち得ない。ロシア・フォルマリスム的にはこれが最上の文学性であるかもしれないが、作・演出の松本氏がそれを志向しているとは思えない。言葉自体の前景化に重きを置いていないのであれば、言葉を放つ役者の力を前景化しなければならないし、それが役者ってもんだろ、とも思う。役者の感情はもちろん表現されていた。しかし感情と感情を繋ぐ・埋める・補う持続力が感じられなかったのが残念だ。
 以上、camp.06「アメリカ」を観て特に気になった点を簡単に二つに挙げてみた。これは観劇感想/批評?の意も込めて書いているが、正直、繰り返しにもなるが、表題にもあるとおり、「演出をするという事」を自分なりに、人の作品を介して、自分のために、今一度改めて考えてみようと思ってした事である。自分の作品を介して考えろよ!とお怒りの声もあるとは思いますが、一観客の感想と思っていただければ幸いです。そして上記文章中に、camp.06への嫉妬と期待と共感と感動と感謝の気持ちが複雑身勝手に混濁していることを付け加えて、おしまい。