逃走=闘争

至極在り来りな等式だが、敢えてタイトルに冠してみた。と言うのも、ロリータ男爵/信長の素を観劇したからである。いきなり、ロリ男ホームページから強引に引用してみよう。


ロリータ男爵とは?
「(中略)オリジナルミュージカルを売りにしているが、それはあくまでバカバカしさを誇張するための要素でしかなく、本質はその無意味さにある。あくまで自己完結なのだが、それすらも無視して描かれる壮大な世界観、人生観がロリータ男爵の売りである。」
http://www.lolidan.com/

「それすらも無視して」・・・言い得て妙とは正にこの事。彼らの痛ましく誇らしげな誤解・曲解(やがて白痴へ昇華?)が空気の如く当たり前に存在しているような舞台。本質を無意味とする点に彼らの肩透しな意気込みが感じられる。

いや、実際の舞台は非常にバカでやりたい放題と映る、と書きたい所だが、頭一つ抜けてないような場面が多く見られた。演出家の視線を感じない舞台と言おうか。要所要所に良い按配感はあったが、個性を大事にしてるんだ仲間意識なんだ(昨今の観客ならすぐにコンドルズのダンスを思い出すだろう)としても、やはりキャラが立たねば意味が無い。(その点コンドルズはキャラ立ちしてると思う。その差違は言葉/身体の関係の中で見出されるだろうが、ここでは省く)。

全体的に役者が上手くない。それが一番でかかった。そして、それを演出家の責任だといえないような舞台の空気。もしも彼らが敢えてあのように幼稚な演技を志向しているのだとしたら、それは闘争からの逃走である。と僕には移った。無意味を創出するにも、あれこれと手を尽くすべきだ。つまり、如何なるアーティストであれ、無意味を表象するならば、それだけの「センス」が求められるのだ。彼らの演技と「野鳩」の演技スタイルとを比べてみれば、一目瞭然だろう。

ま、あれ程の人数を纏め上げるには、人間的な技量が多く求められるだろう。ナイロン100℃愛好者を標榜していた僕には、要所要所にもうちょっと洗練したセンスを求めたかった。あれぐらいなら、金と人と凡人が居れば足りる。OSPFの彼らが余りに面白かったので、期待しすぎたのかもしれない。時代物が嫌いな僕でもあるのだけれど。しかしあのサークル感覚は何だったのだろう…それでいいのか…それで、いいのだろうか…ん〜、アウェイと10周年故、守りに入った舞台だったのだろうと、信じたいけれど。。。

補足
ロリータ男爵、昔から杜撰で隙多い、と言われていたみたいです。下調べをしなかった、私のミスでした。1999エンペ大賞の決戦投票が非常に僕の揺れ動いた気持ちと相対称です。そして、ロリ男が最終決選投票で圧勝。6年経った今、当時の思惑はどこへ? http://dx.sakura.ne.jp/~nnn/play/epa99/senkou.html

補足2
僕が演劇人してなかったら、絶対普通に喜んで見てたと思う。確実にナイロンと比べて、「や、でもやっぱり」的発言をしたでしょうけど。女優さん、一人かなり上手でした。面白いシーンはめちゃくちゃ面白かったです。ロリ男の人が、僕の地元の先輩だった劇団に客演します。すげー。その辺の情報は、またいつか適当に開示してきます。Yさん、僕の事覚えていてくれるだろうか。。。

補足3
そして文学は純文学/エンタメで区切られていたところへ、ライトノベルが参入。さてさて。